「足利尊氏」に「徳川家康」...偉人や皇族も愛した地で「女たらし」が起こす珍道中! 悪巧みの末たどり着いた驚愕の結末とは

AI要約

東海道五十三次を旅する際の興津宿の魅力について紹介されています。西倉沢の集落から薩埵峠を登り、凛とした富士の山容を拝める絶景や、宿場の歴史、名所である清見寺や久能山東照宮などが言及されています。

水口屋という廃業した名旅館の場所や展示内容、皇族や政治家、文人が泊まった歴史なども触れられており、興津宿の歴史と文化について知ることができます。

久能山東照宮の歴史や特徴、そして久能山が石垣イチゴの発祥地であること、イチゴ狩りの魅力などが紹介されています。

「足利尊氏」に「徳川家康」...偉人や皇族も愛した地で「女たらし」が起こす珍道中! 悪巧みの末たどり着いた驚愕の結末とは

日本橋を出発点に、53の宿場を経て京都三条大橋を終着点とする東海道五十三次。

その約490キロメートルにわたる長い旅路の上には、四季の変化に富んだ美しい国土、泰平無事の世の艶やかな賑わいが確かにあった。

各宿場を舞台にした時代小説を解説しながら、江戸時代当時の自然・風俗を追体験する旅好きにはたまらない一冊『時代小説で旅する東海道五十三次』(岡村 直樹著)より一部抜粋してお届けする。

『時代小説で旅する東海道五十三次』 連載第18回

『倒幕を目論む「テロリスト」か、女を知らぬ「朴念仁」か...教科書には書いていない軍学者「由比正雪」の"意外な正体”』より続く

『女たらし』(諸田玲子)

☆宿場歩きガイド

西倉沢の集落から薩埵峠を登る。天候に恵まれた冬場であれば、凛とした富士の山容を拝めよう。「ああっ」とため息をついたきり、次の言葉がつづかないほどの絶景である。

道は下りにかかり、興津川を渡ればほどなく興津宿に入る。

鉄道ならJR興津駅下車。南へ歩けばほどなく東海道で、かつての宿場は西へおよそ500m。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒。

東西の本陣跡を過ぎると、臨済宗の清見寺である。足利尊氏が深く崇敬、今川義元の軍師・雪斎が住職を務めたこともある名刹である。門前には膏薬を商う店が数軒並び、13~4歳の美少年が売るかたわら、男色稼業に精を出した、という。徳川家康が駿府の今川家に人質となっていた頃、勉学に励んだ寺で、その部屋も公開されている。

与謝野晶子が「龍臥して 法の教へを聞くほどに 梅花のひらく 身となりにけり」と詠んだ臥龍梅は、家康が接木したという。五百羅漢は江戸中期の仏像で、それぞれ異なる表情を浮かべて斜面に並んでいる。島崎藤村の『桜の実の熟する時』にも、ここの五百羅漢が描かれている。

東海道を逆に由比方面に戻ると、信用金庫の角地に身延山道の道標と題目碑だ。身延山道は幅3mほど。現在は国道52号として郵便局前が起点となっている。身延道は、鎌倉期にはすでに開かれていたらしいが、戦国時代、駿河侵攻をもくろむ武田信玄によって整備された。江戸時代初期には、身延山久遠寺への信仰の道となっていた。

すでに廃業した水口屋は、皇族、西園寺公望らの政治家、文人らが多数泊まった老舗の名旅館だった。

水口屋は現在、ギャラリーとして公開されており、皇族方の御用達帳、昭和天皇・皇后両陛下が使用された食器、掛け軸などを展示している。

「世に名も高き興津鯛 鐘の音ひびく清見寺 清水につづく江尻より ゆけば程なき久能山」―とは、「鉄道唱歌 第一集」の歌詞である。

晩年を駿府ですごした家康は、遺命として久能山に眠ることを託してあの世へと旅立った。久能山東照宮の社殿は、平成22(2010)年に国宝に指定され、平成27年4月には「御鎮座四百年祭」が行われた。太平洋を見晴らす久能山は石垣イチゴの発祥地として知られ、イチゴ狩りの人々で賑わう。