高木長左衛門の観音巡り(7月21日)

AI要約

高木長左衛門が西国三十三所観音巡りの旅に出る様子が詳細に描かれている。

長左衛門の旅の途中での参拝や祭りの様子が生き生きと記されている。

長左衛門が携えていた通行手形には、旅の目的や慎重な取り扱いに関する規定が記されていた。

 いわきの民俗学者、高木誠一(一八八七~一九五五年)の著書『石[いわ]城[き]北[きた]神[かべ]谷[や]誌[し]』に、誠一の曾祖父[そうそふ]、高木長左衛門の西国三十三所観音巡りの様子が記されている。

 長左衛門が同行十四人で観音巡りの旅に出たのは、天保十二(一八四一)年五月二十三日のことだった。その時の長左衛門の出で立ちは、笈[おい]摺[ずる]という白い木綿の服を着て、頭に「西国順礼」などと書かれた菅[すげ]笠[がさ]を被り、手に金[こん]剛[ごう]杖[づえ]を持つというものだった。

 まず、長左衛門たちはいわきから阿武隈の山々を越え、白河に出て、その先で日光の東照宮に参拝した。そこから、江戸に出て、東海道を西に進んで、富士山に登り、六月十四日の夜には尾張津島の天王祭りを見物した。

 その後、伊勢神宮に参拝し、旅立ちから三十日目には西国三十三所観音巡りの一番札所、那智の青[せい]岸[がん]渡[と]寺[じ]に詣でた。そして、高野山の金剛峯寺にも参拝し、その後は和歌山や大阪、奈良、京都、兵庫など、西国三十三所観音の霊場を巡った。途中、海を渡って、四国にも足を伸ばし、六月三十日には讃岐の金[こ]刀[と]比[ひ]羅[ら]宮[ぐう]にも詣でた。

 その後も観音巡りを続け、最後に岐阜県揖[い]斐[び]川[がわ]町[ちょう]谷汲の華厳寺に参拝して、西国三十三所観音巡りを無事、成就させた。

 帰りには木曾街道を通って、長野の善光寺に参拝し、八月十五日、我が家に帰り着いた。

 ところで、この旅で長左衛門は檀那寺の天福寺から授かった通行手形を持参していた。

 通行手形には、まず、「右[みぎの]者[もの]、代々、禅宗にて、拙[せつ]寺[じ]旦[だん]那[な]に紛[まぎれ]無[ご]御[ざ]座[なく]候[そうろう]」と、この手形を持参している長左衛門が禅宗、天福寺の檀家であると書かれ、次に「此[この]度[たび]、伊勢参宮、并[ならびに]、諸[しょ]国[こく]為[じゅん]順[れいの]礼[ため]罷[まかり]登[のぼり]候[そうろう]間[あいだ]、所[しょ]々[しょ]、御[おん]関[せき]所[しょ]御[おん]通[とお]し可[くだ]被[さる]下[べく]候[そうろう]」、長左衛門は伊勢神宮への参拝と諸国順礼のために旅をしているので、関所を通してやって欲しいと書かれ、さらに、「若[もし]、此[この]者[もの]、何[いず]方[かた]にても、萬[まん]一[いち]の儀[ぎ]、御[ご]座[ざ]候[そうら]はば、御[おん]所[ところ]の御[ご]沙[さ]法[ほう]を以[もっ]て、御[お]取[とり]扱[あつかい]可[くだ]被[さる]下[べく]候[そうろう]」、もし、長左衛門が旅の途中で命を落とすようなことがあれば、そちらの土地のやり方、作法に従って、葬っていただきたいとも書かれていた。