市民が暴いた、「一滴も使わない水」に34年間で3億2200万円を支出していた金沢市の膨大な無駄

AI要約

辰巳ダムは金沢市近くにあり、辰巳用水の破壊を阻止した運動の歴史を紹介。

石川県の計画では辰巳用水を水没させ、文化遺産を破壊する予定だったが、住民運動によって打破された。

情報公開制度の成立や運動のターニングポイントが詳細に説明されている。

 辰巳ダムは、金沢市中心部から車で約30分走ると見えてくる。緑が繁茂し、ダムの壁が見えなければ、そこがダム湖だとは気がつかない(冒頭写真)。石川県による最初の構想では、ここを水没させたうえで、文化遺産「辰巳用水」の取入口も破壊するはずだった。その計画は、住民による情報開示請求と住民監査請求で打破された。それはどんな運動だったのか。約40年に及ぶ辰巳ダム建設反対運動の記録集「うつくしき川は流れたり」(2019年発行)を手がかりに、運動を担った人々に話を聞いた。

■ 破壊されかけた文化遺産「辰巳用水」

 辰巳用水。それは、加賀藩主のもとで江戸時代に築造された。金沢城の「辰巳」(東南)方向から流れる犀川(さいがわ)から取り入れ、河岸の台地の縁を掘った隧道(ずいどう)を流れる。約9キロ先の日本三名園の一つ「兼六園」に水を引く用水だ(下記写真参照)。

 400年以上にわたって自然地形と標高差だけで水が届く、この稀有な技術を今に遺す辰巳用水の要である取入口「辰巳東岩取入口」を潰して石川県が造ろうと1975年に着手したのが辰巳ダムだった。

 「2012年に辰巳ダムは完成しましたが、『辰巳用水の破壊』というダムの副作用を止める運動から始まって、情報公開制度の成立が一つのターニングポイントとなり、ダムの主作用である治水・利水の問題を明らかにしました。それがこの運動の特徴です」と振り返ったのは、市民団体「兼六園と辰巳用水を守り、ダム建設を阻止する会」(通称「辰巳の会」)のまとめ役だった碇山洋金沢大学教授だ。

 住民運動が守り通した「辰巳用水」は、やがて2010年に国史跡に指定され、2018年には土木学会が土木遺構に選奨することになった。

■ ターニングポイントだった情報公開制度の成立

 情報公開制度の成立で、住民運動がどう変化したかを教えてくれたのは、その制度を徹底して駆使した「ナギの会」代表の渡辺寛さんだ。

 「当初の運動は、辰巳用水を守りたいという思いが前面にあった。しかし、ダム計画そのものにも問題があった。もっと調べるべきだと思って僕らは色々調べていった」という。

 たとえば、県の資料を読むと旧河川法ではダム計画を「工事実施基本計画」に位置づけることになっていた。それがダム建設の根拠だと思って、資料を求めても県は公開しなかった」と渡辺さん。

 その状況が変わったのが、国の情報公開法に先駆けて成立した1991年の金沢市情報公開条例や1994年の石川県情報公開条例の成立だった。

 60ページにおよぶ「辰巳ダム治水計画説明書」を県に公開させた時には、ダム計画の根拠となっていた洪水の想定流量が、技術的な根拠なく過大に計算されていることを見つけた。

 「ねつ造だ! と批判したんです」(渡辺さん)

 また、一方で、「工事実施基本計画」を開示させると、そこにあるはずの辰巳ダムの記載がないことも発見、渡辺さんは「僕らは河川法違反じゃないか! と追及した」という。