短距離走のペースでマラソンを走らされるようなもの…「敏腕エージェント」の身勝手すぎる要求に振り回される「翻訳業界の闇」

AI要約

出版翻訳者の仕事の舞台裏が明かされる。『スティーブ・ジョブズ』の翻訳者が無理ゲーにどう対応したか?

講談社での編集者へのアピールや交渉について。編集者との面談での印税率や条件の交渉に関するエピソード。

最終的に翻訳者がやる気を示し、厳しい条件下でも仕事を引き受けた経緯。翻訳家の仕事の舞台裏に迫る。

短距離走のペースでマラソンを走らされるようなもの…「敏腕エージェント」の身勝手すぎる要求に振り回される「翻訳業界の闇」

 小説家、漫画家、編集者、出版業界の「仕事の舞台裏」は数あれど、意外と知られていない出版翻訳者の仕事を大公開。『スティーブ・ジョブズ』の世界同時発売を手掛けた超売れっ子は、刊行までわずか4ヵ月という無理ゲーにどうこたえたのか? 『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』(井口耕二著)から内容を抜粋してお届けする。

 『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』連載第3回

 『翻訳出版業界の「慣習」がヤバすぎる…『スティージョブズ』の一流翻訳家が語る、誰も知らない「壮絶な仕事内容」』より続く

 連休明けの5月11日、講談社でノンフィクションを担当しておられる、編集者おふたりに会うことになりました。

 さて、どうアピールすればいいのか。講談社にとって、私を選んだらこんな得がありますよと言えるものがいい。やはり実績でしょう。前述のように関連本を何冊も訳してきましたし、その中にはベストセラーもある。私の訳が一番よく読まれているのはまちがいありません。

 強く印象づけようと、おみやげにも頭を絞りました。定番はお茶菓子ですが、好みもわからず適当に選んでもごくふつうのおみやげにしかならず、印象に残るはずがありません。

 であればいっそと、鹿の角という奇策に走ることにしました。実は、毎年、家族で山の中を歩き回り、生え替わりで落ちた鹿の角を拾っていたのです。というわけで、小ぶりで色や形のいいものを1本選んで持っていくことにしました。

 「なんですか、それ?」

 東京・護国寺にある講談社に鹿の角を持っていくと、担当編集者さんはあっけにとられていました。そのあとも社内で話題になったと聞いていますから、私の狙いは成功したと言えるでしょう。

 しかし5月11日当日、そんなことを考える余裕はありません。面談は、すぐ本題に入りました。

 「だれに翻訳を依頼するのか、候補者をロングリストからふたりのショートリストまで絞りました」

 のっけからこれです。初めてというリスクはあるけれど関連本の実績が豊富な私に頼むか、「いつもの人」に頼むかという話なのでしょう。言い換えれば、こいつと仕事するのは危ないと思われたらおしまいということです。

 続けて

 「ふつうならこんな条件は示さないのですが、この件は例外で、印税率は××しか出せません。この印税率で仕事はできないということであれば、この話はなかったことにしてください。なにせ、著者というかそのエージェントというかが強くて」

 前回記事で述べたように、米国の場合、版権交渉などは著者本人ではなく、エージェントがおこないます。『スティーブ・ジョブズ』は著者のウォルター・アイザックソンも大物なら、エージェントは米国一の敏腕と言われている人です。かなり厳しい条件になっているのでしょう。

 「こういう話があったらやりたいと前から思っていたことなので、印税率は出せるだけでかまいません。やりたいんです」

 即答しました。はなから交渉にならない全面降伏という感じですが、本音でもあるし、「いつもの人」に対抗するためやる気を示すべきだろうとも思いましたし。