「若い女の兵士がニヤニヤとしながら、ピストルを突きつけて…」 朝鮮半島に進駐してきたソ連兵は「赤ん坊の着物」まではぎとった

AI要約

ロシア軍のウクライナにおける暴虐や受刑者の参加について報告されている。

朝鮮半島での終戦直後には、ソ連兵による略奪や暴行が繰り返され、日本人も犠牲となった。

ソ連軍は北朝鮮に進駐し、日本軍の武装解除を行い1000人単位で連行した。略奪行為は女性や子供にも及んだ。

平壌に進駐したソ連兵は、入れ墨のような数字が彫ってあり、悪辣な行動を行っていたことが目撃された。

「若い女の兵士がニヤニヤとしながら、ピストルを突きつけて…」 朝鮮半島に進駐してきたソ連兵は「赤ん坊の着物」まではぎとった

 ロシア軍のウクライナにおける暴虐は数多く伝えられている。ロシア側の戦闘員には、民間の受刑者らが「ストームZ部隊」の兵士として多数投入されているという報道もある。

 歴史は繰り返すということだろうか。

 1945年8月、朝鮮半島。敗戦の6日後にはソ連軍が北朝鮮に進駐し、略奪と暴行の限りを尽くしたといわれるが、そこでも「囚人番号」らしき入れ墨が刻まれたソ連兵の姿が目撃されている。難民と化し格好の餌食となった在留邦人たちは、どれほどまでに凄惨な体験を強いられたのか――。

 そんな状況を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「とある男」に光を当てたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。(全6回の3回目/最初から読む)

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 終戦直後の北朝鮮では、ソ連兵が略奪、暴行の限りを尽くした。避難民ばかりでなく、各地に残る日本人が格好の餌食となり、恐怖におののいた。

 

 ソ連軍は1945年8月21日に東海岸の都市、咸鏡南道(ハムギョンナムド)元山(ウォンサン)と咸興(ハムン)に進駐した。北朝鮮の中心都市・平壌(ピョンヤン)には、24日に鉄道と大型輸送機で入城した。米軍が北緯38度線以南で軍政を敷いたのとは異なり、ソ連軍は朝鮮人による人民委員会を行政の主体とする間接統治方式を採用した。ソ連軍が北朝鮮から撤収するのは、朝鮮民主主義人民共和国が1948年9月に建国した後の同年12月だった。

 

 北朝鮮には終戦当時、陸海合わせて約12万人の日本軍が駐屯していた。ソ連軍はその武装解除を行うと、使役のため1000人単位の作業集団に編成してシベリアに連行した。軍人だけではなく、朝鮮総督府の官吏や警察官まで拘束した。

 進駐してきたソ連兵による略奪はすさまじかった。元玉川大学教授の若槻泰雄の著書『戦後引揚げの記録』は、次のように指摘する。

〈道路上で小銃をつきつけポケットから目ぼしいものをとりあげるという“軽度”のものから、トラックを日本人の家に乗りつけて根こそぎ奪っていくという“本格的”な略奪まで、やり方はさまざまだが、ソ連兵の中には、女性の髪の中をさぐり、あるいは赤ん坊の着物まではぎとったものさえいる〉

 国民学校6年生だった藤川大生(ますお)は、生まれ育った平壌にソ連兵が進駐してきた直後の光景が目に焼き付いている。

 

「8月25日前後です。汚い格好で赤鬼みたいな顔をしたのが、何台ものトラックに分乗して平壌に入ってきました。そいつらが今まで日本軍が使っていた兵舎や施設を接収して、自分たちの部隊で利用した。

 3~4カ月で次の部隊と駐留を交代したけどね、最初に進駐してきた部隊はみんな、手の甲に入れ墨があった。数字が彫ってあるんですよ、囚人番号でしょうか」