〝最後の牛〟に愛情込めて 能登地震5カ月、廃業決めた酪農家

AI要約

能登半島地震で苦境に立たされた奥能登地域の農家が経営を断念し、牛を手放す決断を下す。

被災による損害や経営への影響が続き、地震から5カ月が経過しても復旧が難しい状況が続いている。

その他の農家も廃業を余儀なくされ、依然として一部の畜産農家では断水が続く状況である。

〝最後の牛〟に愛情込めて 能登地震5カ月、廃業決めた酪農家

 元日に起きた能登半島地震で甚大な被害を受けた石川県の奥能登地域で、経営を畳む苦渋の決断をした農家がいる。燃料や餌代の高騰、生乳や子牛価格の下落が経営を圧迫する中、追い打ちをかけた牛舎の損壊、長引く断水――。地震発生から5カ月がたち、震災の爪痕がじわじわと農家を追い詰めている。

 「たくさん支援してもらったのに続けられないのが心苦しい」

 能登町で被災した畑中栄一さん(73)は、半世紀の酪農人生に幕を下ろす。震災前に45頭いた牛のうち、20頭は廃用。震災後に生まれた牛を含め、28頭を県内外の牧場に引き取ってもらう。4日までに16頭を送り出した。「この年まで必死にやってきた。残念の一言しかない」と心境を吐露する。

 年末から、妊娠牛は出産ラッシュだった。本来なら乳量も最盛期を見込んでいたが、地震による断水と機械類の故障で搾乳を断念。「乳が張って痛がる牛の鳴き声を聞くのはつらかった」と、搾乳再開までの1カ月を振り返る。

 25頭いた搾乳牛では乳房炎も相次いだ。治療しながら出荷再開にこぎ着けてからも、乳量は1日100キロほどまで落ち込んだ。資材高騰もあり、牛舎の再建には踏み切れなかった。経営の足しにしていた和牛子牛も高く売れず、「今が潮時や」(栄一さん)と、自分の代で築いた酪農経営を、自分の手で終わらせる決断を下した。

 震災後に周囲から受けてきた支援を思うと後ろ髪を引かれる。妻の千恵美さん(64)は「皆さんの支えがあったから、ここまで心丈夫にやってこられた」と話す。

 都市部に移住も考えたが、移動式の仮設住宅を借り、しばらくは自宅と牛舎があるこの地で生活を続ける。「夫婦2人で何十年と走り続けてきた。落ち着いたら妻を旅行に連れて行って、いたわってあげたい」(栄一さん)。畑中さん夫妻は現在、半壊の自宅に残り、最後の牛たちの世話を続けている。

 廃業を決めたのは畑中さんだけではない。「能登牛」100頭を飼養していた柳田肉用牛生産組合(能登町)の駒寄正俊組合長は、6月の市場に出荷する4頭を最後に廃業する。道路寸断や停電、断水で、震災直後には息絶える牛も出た。

 第三者継承を準備していたが、地震で白紙にせざるを得なかった。「せっかくやる気ある若いもんに環境を整えてやれなかった」と悔やむ。

 県のまとめでは、4日現在、依然として16戸の畜産農家で断水が続く。各農家が新たに地下水を引いたり、給水車の配給を受けたりして苦境をしのぐ。

 県酪農業協同組合によると、震災前に31戸あった酪農家のうち、5月末時点で27戸が集乳を再開。その他、1戸は集乳再開のめどが立つが、1戸は経営継続の意向はあるものの見通しは立っていない。2戸は廃業した。JA全農いしかわによると、肉用牛農家は2023年12月末時点で、繁殖・肥育経営合わせて34戸だったが、震災後、3戸が廃業する見通しだ。(島津爽穂)