六本木のホリエモンにもアポ入れた…興銀を辞めサイボウズへ転じた元副社長が譲れなかったバンカー魂

AI要約

サイボウズ元副社長の山田理氏が、銀行からIT業界に転職した経緯や当時の風景を振り返る。

山田氏が銀行で働いていた頃、IT業界はまだ黎明期であり、ネット関連の起業家たちとの交流やビットバレーブームに巻き込まれる。

バンカーとしての立場からIT業界へ転身した山田氏の活動が注目を集め、独特の空気感の中での活動や苦労が描かれる。

ソフトウエア開発会社「サイボウズ」元副社長の山田理氏にとって、前職の銀行やバンカーはどのような存在か。金融業界をはじめ数多くの取材を続けるジャーナリストの秋場大輔さんは「当時は、銀行とIT業界は水と油の関係だと思われていた」という。山田氏はなぜ変化を遂げられたのか。前後編に分けてお届けする――。

 ※本稿は、秋場大輔『ヤメ銀 銀行を飛び出すバンカー』(文春新書)の一部を再編集したものです。

■眠たそうなホリエモンが「はあ?」

 山田理(おさむ)は一九九二年に日本興業銀行(現みずほ銀行)へ入行した。

 一九九九年に社員わずか十五人だったソフトウエア開発会社のサイボウズへの転職を決め、現社長の青野慶久を支えて二〇二一年三月まで副社長を務めた。興銀時代の後半にIT業界を担当したことが転職のきっかけとなったのだが、当時まだ黎明期だった業界の様子をこう語る。断片的な描写が続くが、山田の話の情景を思い浮かべるとIT業界の当時の息遣いが伝わってくると思う。

 「一九九八年とか一九九九年ころのことですけど、(興銀で)上司の課長が突然言うたわけです。もっと新しいことをやろう。ITやろうって。これからはインターネットでしょうとか。ところでインターネットってなんやねんって感じでしたけど」

 「ホリエモンのアポイントを取って六本木の雑居ビルに行ったこともありましたわ。ピンポン鳴らして『どうも』とか言うて。ホリエモンが中から眠たそうな顔をして出てきて、『はあ?』とか言う」

 「楽天の三木谷浩史さんやDeNAの南場智子さん、サイバーエージェントの藤田晋さんなんかへ飛び込み営業をかけたこともあったなあ。そのうち『ちょっと集まってください』とか言うて、興銀の本店に来てもらって、そこで勝手にネットワークビジネス協議会みたいな適当な名前を付けた会を立ち上げたりした」

 「その頃、光通信なんて飛ぶ鳥を落とす勢いですよ。いろんな銀行がまとわりついた。僕は後から入っていったんやけど、めっちゃ気に入ってもらって、最後メーンになって……。でもその後、飛ぶ鳥は落とされたわけやけどね」

■渋谷が「ビットバレー」と言われた頃

 「あの業界はみんないい加減。でもノリが良かった。それが僕の性格に合った。でも普通のバンカーは、ああいうノリが嫌やったろうね」

 山田はそう振り返った上でこんなことを言った。

 「ネット関連の起業家がようけ集まったので、渋谷が『ビットバレー』とか言われたことがあったやないですか。あのビットバレーブームみたいなもんは六本木のディスコで開かれた交流イベントでピークを迎えたわけです。今にして思えばなんやねんっていうイベントやけど、ソフトバンクの孫正義さんがプライベートジェットで米国から戻ってくるとか、石原慎太郎・東京都知事(当時)や日銀の速水優総裁(同)も駆けつけるとか。そこで起業したい人やベンチャーキャピタルの人、バンカーが集まって名刺交換をしたりした。当然、僕も行きましたよ」

 「そしたらその様子がテレビに映ったんです。翌日、会社に行ったら『なんで山田があの場におんねん?』と。僕以外にも名刺交換しよ思て会場に来ていた人はたくさんおったから別におかしくないんやけど、変な空気になった。しゃーないから『いやいやIT担当ですからおっただけです』とか言い訳して。バンカーって基本的に黒子やないですか。そのバンカーがテレビに映っとったから、『なんや!』という話になった。ほとんどの人は僕がおかしいと思ったんやないかなあ」