「おじさん3人の取締役」を新人含む17人体制へ…サイボウズに転じたヤメ銀が古巣を反面教師にした大改革

AI要約

バブル期に株式投資預言者として知られた尾上縫による興銀への影響と、その事件が山田理氏に与えた影響について紹介される。

山田理氏は興銀での経験に疑問を感じ、サイボウズの高須賀宣との出会いを機に興銀を離れ、正直で裏切らない姿勢を持つサイボウズに就職することを決める。

山田理氏は興銀での経験を振り返り、「興銀マンであることと、自身の理想とする姿が一致しなかった」と語っている。

「興銀にいたからこそ今がある」。サイボウズ元副社長の山田理氏にとって、この言葉の真意は何か。ジャーナリストの秋場大輔さんの『ヤメ銀 銀行を飛び出すバンカー』から紹介しよう――。

■“株式投資預言者”尾上縫の「行」

 大阪ミナミに「恵川(えがわ)」「大黒(だいこく)や」という料亭があった。

 経営者の尾上縫はバブルのころ、日曜日になると「行(ぎょう)」という奇妙な儀式を開いた。

 そこで参加者が特定の銘柄を挙げて株価の見通しをたずねると、陶酔状態の(ふりをしている)尾上が「上がるぞよ」「まだ早いぞよ」などと答えた。これが神がかり的な株式投資予言者として評判を呼び、証券会社の営業マンが手数料欲しさに門前市をなした。その中に興銀大阪支店の行員がいた。

 尾上は興銀が発行する割引金融債「ワリコー」を二千五百億円以上購入、そのワリコーを担保に複数の銀行やノンバンクから借り入れをして株式投資に振り向けた。中には興銀株も含まれていたので、尾上縫は興銀の個人筆頭株主となり、当時頭取だった黒沢洋が夫婦で恵川を訪れたりした。

 一九九一年八月十三日、三和銀行系の信用金庫である東洋信用金庫が緊急記者会見を開き、「元今里支店長が特定の取引先と共謀し、三千四百二十億円におよぶ架空預金証書を発行していた。特定の取引先はこれを担保にノンバンクなどから融資を受けていた」と発表した。

 「特定の取引先」とは尾上のことで、本人も同日、大阪地検に逮捕された。奇しくも山田が悩んだあげく商社への就職を断り、興銀に入ることを決めた時にケチはつき始めた。

■「僕は想像のような興銀マンやない」

 「担当者は尾上縫が怪しいとわかっていたはずや。でもワリコーをぎょうさん買ってくれるから持ち上げた。そればかりやない。バブルの時の融資を回収するのが本当は難しいのに、当局の検査時に作る資料では『回収可能』と書き、不良債権ではないと嘘をつき続けたわけです。そうした作業に長けている奴が偉くなっていく。その終着点が三行統合発表。もうあかん。これは僕の好きな興銀やない。はよ辞めなと思ったんです」

 ちょうどその頃、山田は興銀の本店でサイボウズの社長(当時)の高須賀宣(たかすかとおる)と面会した。サイボウズは二年前の一九九七年に創業したばかりで、当時の本社は大阪。社員は十五人。そんなベンチャーに融資ができないかと考えたから会ったのだが、そこで二人はすっかり意気投合した。

 「興銀は嘘をついてばかりで肩身が狭かった。これからはお天道様の下で堂々と歩く人生にしたいと思っとったところにやってきた高須賀さんは『会社は公器で社会貢献のためにある』とか『売上高っていうのは社会への役立ち高なんですよ』とか言ったんです。響きましたね。正直に言えば、統合が発表になって興銀を辞めようと思っていた時に、付き合いがあった上場目前のITベンチャー企業とかからウン千万でどうだとかいう誘いがありました。けどサイボウズがええんやないかと思った」

 「僕は嘘をつきません。裏切りません。でも想像しているような興銀マンやない。それでも良いですか?」

 山田がそう聞くと高須賀は「構わない」と言った。こうしてサイボウズ入りは決まった。山田は三行統合発表から三カ月しか経っていない一九九九年十二月に退職を申し出て、翌二〇〇〇年一月には荷物をまとめ家族と社宅を出た。