音楽の記憶が導く「独創性」と「普遍性」──猪野秀史のニューアルバム『MEMORIES』

AI要約

猪野秀史のニューアルバム『MEMORIES』は、本気の音楽ファンの心を掴む怪作であり、幼少期から現在までの音楽の記憶を元に独自のポップセンスを開花させた作品である。

猪野のヴォーカルとシンプルで緻密なアンサンブルが有機的に絡み合い、内省的な歌詞と生々しい歌声が深く聴く者の内面に鋭く突き刺さる。

彼の純粋な創造への衝動から、未だ進化するポップミュージックの可能性を示し、愛と勇気を届ける普遍的な音楽となっている。

音楽の記憶が導く「独創性」と「普遍性」──猪野秀史のニューアルバム『MEMORIES』

本気の音楽ファンの心を掴む「怪作」。

結論を先に言おう。猪野秀史のニューアルバム『MEMORIES』は、音楽によって魂が震えるような体験をしたことがあり、また、そうした体験を求めてフレッシュな音楽を今日も探し続けている本気(「ガチ」とルビを振りたい)の音楽ファンの心を必ずや掴むであろう「怪作」である。

猪野秀史といえば、マイケル・ジャクソンの「Bille Jean」、ジャクソン5の「Never Can Say Goodbye」、ユセフ・ラティーフの「Spartacus」といった名曲たちをフェンダーローズの鈍く輝く音色を生かしてカバーしたインスト集『SATISFACTION』を2006年にリリースして以来、都会的でありながらもノスタルジックな独特のリリシズムを帯びたサウンドをつぐむキーボディストとして注目を集めた。以降、鈴木茂、小西康陽、藤原ヒロシ、大沢伸一といった様々な個性を持ったミュージシャンとの共演を果たすなどし、いわゆる「ミュージシャンズミュージシャン」としてコアな音楽ファンの間でその名を知られる存在だ。また、2018年リリースの6thアルバム『SONG BOOK』以降の作品ではヴォーカル曲を中心にし、より洗練されたムードのなか、要所要所に実験的なアレンジを加えた「ポストモダンAOR」とでも呼びたくなるハイセンスな楽曲を発表し続け、その秀逸な音楽性を周知のものとしている。

そんな猪野秀史のニューアルバムが9月6日にリリースされる。

このアルバムで猪野は自身のルーツを探りながら、自らのアイデンティティとなる音楽の確立、言い換えれば、未だどこにもない正真正銘のオリジナルな音楽の完成に挑戦し、それを見事に成し遂げている。もっとも、「正真正銘のオリジナルな音楽」などと言うと、何やら一般の音楽リスナーには取っ付きづらそうな難解な楽曲が想像されるかもしれない。確かに『MEMORIES』と題されたこの新作には、高度な音楽理論に裏打ちされた実験的な構成やアレンジが耳に残るところもある。しかし、作品の根底にあるのは、猪野の幼少期から青年期にかけての、さらにミュージシャンとして活躍する現在に至るまでの【音楽の記憶】であり、その【音楽の記憶】が呼び起こした音楽制作に対する嘘や飾りのない純粋な衝動だ。それゆえ、自身の心象を率直にしたためた歌詞も含め、本作は世代を超えて多くのリスナーが共感できるものとなっている。とはいえ、それは数多の音楽ジャンルを横断し、混ぜ合わせたような「ごった煮」的な作品を意味しない。むしろ、アルバム全体が一つのトーンによって導かれていると言った方が正しいだろう。では一体、このアルバムを貫く猪野の【音楽の記憶】とは何だろうか。

それを端的に言ってしまえば、彼が幼い頃にピアノのレッスンで親しんだクラシック音楽の普遍性と少年時代に触れたであろうポストパンク期のロックの持つ生々しさだ。そして、この両者の融合こそが、今作『MEMORIES』で猪野が試みたものであり、また、彼にしか表現できない唯一無二の音楽なのである。

故郷、宮崎県の祝子川のせせらぎがドビュッシー『月の光』の旋律へと変わり、サイケデリックなアナログシンセの響きへと移っていく一曲目『PORTAL』でアルバムは幕を開ける。その後、性急なビートにクラシック曲を想起させるピアノのフレーズと少々ぶっきらぼうな猪野のヴォーカルが乗ったリード曲『WHO ARE YOU ?』を経て、フェンダーローズとピアノが軽快に交差するなかで醒めた熱気を孕んだ猪野のヴォーカルが際立つ『FUKYO WAON』へと聴き進めれば、前述の「クラシック音楽の普遍性とポストパンク期のロックの持つ生々しさの融合」が、猪野に独自のポップセンスを開花させたとリスナーは確信するだろう。

実際、本作のユニークさを際立たせているのは、猪野のヴォーカルである。ローズ、ピアノ、シンセ等によって組み立てられたシンプルながら緻密なアンサンブルが、巧みにプロミングされた硬質なビートと研ぎ澄まされたグルーヴへと有機的に絡み合うなかにあって、そこに収まりきらない生々しくありながらも繊細で実直な猪野の声。そして、その声が発する言葉=歌詞もまた、これまでになくパーソナルな思索と内省を飾らずに歌っており、そのナイーブな歌声は「サウンドとして消化しよう」となどというテクニカルな処理を一切しない分、より深く聴く者の内面に突き刺さる。

本稿の冒頭で、筆者は猪野を「ミュージシャンズミュージシャン」と記した。事実、彼にはそうした側面もなくなはない。しかし、猪野の鋭敏な感受性に由来する創造への衝動は、彼を「優秀なキーボードプレイヤー」だとか、「洒落たシンガーソングライター」といった紋切り型で片付けてしまうわけにいかないほどに突出していることを、このアルバム『MEMORIES』は如実に物語っている。そして、そのことをもって猪野秀史はミュージシャンである前に「アーティスト」なのだと結論づけたくもなるのだが、さすがにそれは論理の飛躍だと他ならぬ猪野その人にたしなめられるかもしれない。だが、少なくとも猪野秀史は「音楽を作るからミュージシャン」なのであって、「ミュージシャンだから音楽を作る」のではないはずだ(私見で恐縮だが、この因果関係が逆転してしまったミュージシャンは「プロ」ではあっても「アーティスト」ではないと筆者は考える)。

音楽制作ソフトの一般化、フェスの乱立、サブスクリプション配信とソーシャルメディアによるプロモーションの普及等々、音楽をめぐる状況が大きく変化する中、いつの間にか音楽がジャンルごとに「定型化」されてしまったような印象を覚えてしまう──ヘミングウェイを気取るわけではないが、「何を聴いても何かを思い出す」──昨今のシーンにあって、猪野秀史は、その純粋な創造への衝動から、自身の魂=スピリットに忠実な音楽を作ることを決意し、たった一人でスタジオに篭り、自分の内面に棲むさまざまな思いと向き合いながら、それを完成させた。結果、猪野が世に送り出したのは「何にも似ていない音楽」である。しかし、それは決して難解でも、排他的でも、奇を衒うものでもない。音楽を真に愛する者であれば、誰もが共感し、勇気づけられ、それによって自身の内面の奥底にあるものと出会うことになるような力を持った普遍的な音楽=ポップミュージックなのである。

故に、猪野秀史のニューアルバム『MEMORIES』は、ポップミュージックには未だ進化する余地があることを示すものであり、また同時に音楽を愛するすべての者へ向けたポジティブなメッセージでもあるのだ。

■『MEMORIES』

INO hidefumi

(innocent record)