小学校に「蒸留所」ができた…「1年で完成する日本酒」の酒蔵が、「1年で完成しないウイスキー」を作り始めた理由

AI要約

岐阜県高山市で200年続く老舗酒造店が、16年前に廃校となった小学校の体育館にウイスキー蒸留所を作った。その理由や社長の経歴、蒸留所の設立に至るまでの経緯について紹介。

高校時代まで高山で過ごした有巣氏は、東京の大学に進学し、コンサルティング会社で働いていた。しかし、祖父からの事業承継依頼により、高山に戻り舩坂酒造店を再建することになる。

最初は気乗りしなかったが、祖父の頼みを受け、赤字続きの会社を再建すべく取り組む有巣氏の姿が描かれている。

岐阜県高山市で200年続く老舗酒造店が、16年前に廃校となった小学校の体育館にウイスキー蒸留所を作った。日本酒をつくる酒蔵が、なぜ経験のないウイスキー造りをはじめたのか。中小企業診断士の伊藤伸幸さんが、舩坂酒造店の有巣弘城社長に取材した――。

■ウイスキー蒸留所に生まれ変わった小学校

 岐阜県高山市の高根地区と呼ばれる山間の過疎地に、16年前に廃校になった小学校の校舎がある。この場所はいま、ウイスキーの蒸留所に生まれ変わっている。

 かつての体育館に蒸留設備がある。真新しい2基のポットスチル(蒸留器)が、ステージに構えている姿はまさに圧巻だ。

 この蒸留所を立ち上げたのは、江戸末期から200年以上続く酒蔵である舩坂酒造店の社長・有巣弘城氏(40歳)。ここには、高山発のウイスキーを世界中に届けたいと願っている彼の夢が詰まっている。

 有巣氏の実家は曽祖父母の代から高山で食堂を営んでいたが、経営を引き継いだ祖父が事業を拡大し、結婚式場や旅館業を営む企業グループに成長させた。有巣氏は唯一の男の孫だったこともあり、祖父から特に可愛がられ「お前も将来は必ず社長になれ!」と言われて育った。そのため子供ながらも、いつかは自分も社長になるのだろうと考えていた。

 高校時代まで高山で過ごした有巣氏は、いつかは地元に帰ってくることを意識しながらも東京の大学に進学し、そのまま都内のコンサルティング会社に就職した。入社してからは企業再生や事業承継の案件に取り組むようになった。慣れてくると仕事がだんだん面白くなり、やりがいもあったので充実した日々を過ごしていた。

■祖父の頼みを断れず…

 そんな有巣氏にいきなり転機が訪れる。実家のアリスグループが、経営不振に陥っていた舩坂酒造店を事業承継することになり、再建を手伝ってほしいと祖父から依頼があった。ちょうど仕事が軌道に乗ってきた頃だったので、正直まだ高山には帰りたくはなかった。しかし、断ることもできず、2010年に急遽高山に戻ることになった。

 最初はあまり気乗りしていなかった。それでもせっかく縁があって入社したのだからと、気持ちを新たにして祖父と一緒に仕事に取り組むようになった。しかし、すぐには結果が出ず会社は赤字続きの厳しい状況が続いていた。