戦艦「長門」を捕鯨母船に!? 代わりに白羽の矢が立った知られざる武勲艦たち「飢餓状態の日本を救え!」

AI要約

太平洋戦争後の食糧難を解消するために建造された「第一号型輸送艦」について

高速で兵装も備えた小型の軍用輸送船として設計され、多目的に活用された

計画された46隻のうち21隻が完成し、16隻が戦没して残存艦は復員業務に従事

戦艦「長門」を捕鯨母船に!? 代わりに白羽の矢が立った知られざる武勲艦たち「飢餓状態の日本を救え!」

 太平洋戦争に負けた直後の日本は、戦禍によって国土は荒廃、加えて重要な働き手の男たちはまだ復員しきっていなかったため、国内の食糧生産もままなりませんでした。

 そのような厳しい食糧事情の改善を図るべく、お腹を空かせた日本人のために捕鯨母船として「出漁」したのが、太平洋戦争後期に大量生産された「第一号型輸送艦」の残存艦たちだったのです。

 なぜ数ある残存船舶の中から「第一号型輸送艦」が選ばれたのか、そこには同クラスならではの特殊な船体形状が関係していました。

 1941年12月に太平洋戦争に突入した日本は、真珠湾攻撃やマレー半島、フィリピン、蘭印の攻略など第一段作戦を順調に実施。続く第二段作戦ではニューギニアやソロモン方面の攻略を試みましたが、戦いの様相は底なしの消耗戦となり、日本は各地で制空権や制海権を失ってしまいました。

 しかしこのような戦況下でも、最前線には補給を行わなければなりません。ただ、民間船がベースの一般的な輸送船では鈍足で防御力にも欠けるため、敵の航空機や潜水艦などの攻撃を受けやすく、戦争が激しさを増すにつれその多くが撃沈されてしまいます。

 そこで日本海軍は、高速で相応の兵装も備えた駆逐艦や、海中に潜って敵の目をごまかせる潜水艦を使って補給物資を運びました。前者は夜間に高速で航行するため「ネズミ輸送」、後者は敵の目を盗んで潜航して行われるため「モグラ輸送」とそれぞれ呼ばれましたが、本来、駆逐艦や潜水艦は戦闘艦であるため物資の搭載量は少ないうえ、肝心の戦闘ではなく輸送任務中でも敵に見つかるケースが続出。次々撃沈されてしまい、貴重な戦力をいたずらに消耗する結果となってしまいました。

 そこで対策として、一般的な輸送船よりも速く小回りが利き、相応の兵装を備えた小型の軍用輸送船が計画されます。この小型の高速輸送船は、いわゆる輸送船というよりも、物資を多く搭載できるようにした、速力がやや遅く武装が少なめの駆逐艦のような艦型でした。

 自衛用として高角砲(いわゆる高射砲)、対空機銃、爆雷、レーダー、ソナーやハイドロフォンといった音波探知機など、軍艦としても通用する装備を搭載。積荷を運びながら自艦を守るだけでなく、輸送船団の護衛もおこなえるように設計されていました。

 そのうえ、沖合から岸まで補給物資を運ぶ手段として「大発」と呼ばれる上陸用舟艇を船尾に搭載できました。しかも、これを速やかに発進させるため、艦尾にはスリップウェイ(傾斜面)が設けられていたのです。

 さらにこのスリップウェイを利用すれば、大発の代わりに水陸両用戦車(各種の特型内火艇)や甲標的(いわゆる小型潜水艦)、回天(特攻用の人間魚雷)を発進させることも可能でした。また機雷の敷設まで行えたため、輸送任務に加えて、戦闘任務に投入することもできました。

 何にでも使える汎用艦として建造されたこの輸送艦は、「第一号型輸送艦」と命名され1944年中頃から竣工が始まります。ただ、日本海軍では46隻の建造を予定していましたが、21隻が完成した時点で終戦を迎えました。

 こうして生まれた第一号から第二十一号輸送艦ですが、使い勝手がよかったため酷使されて16隻が戦没。生き残った艦も復員業務に従事することになったのです。