【金融危機の世界史】バブル崩壊と戦争が襲った「世界史上最悪の悲劇的な時代」の深刻実態

AI要約

1928年、株価のバブルの上昇や資金の流れにより、国際金融危機が始まる。

欧州の金融機関が倒産し、各国の金準備が失われる中、各国の対応が不十分で危機が拡大。

金本位制の停止や通貨の交換制限など、連鎖的な金融引き締めがデフレを招き、危機が悪化。

【金融危機の世界史】バブル崩壊と戦争が襲った「世界史上最悪の悲劇的な時代」の深刻実態

なぜ国際金融危機は繰り返されるのか。世界史の中で起きたさまざまな金融危機の裏にあるストーリーから国際金融の基礎知識を描き出した話題書『教養としての金融危機』著者からいま必要な知識や考え方を学ぶ。

米国→ドイツ→英仏→米国という資金の流れに基づいた、世界経済の一時の安定は長続きしませんでした。米国の投資家が、ドイツに投資する以上に有利な投資対象を見つけたからです。

ニューヨーク株式市場は、1927年に38%上昇した後、1928年には44%上昇します。1928年の上昇は配当の増配と乖離しており、バブルの域に達したと言って良いでしょう。

市場の行き過ぎを恐れて1928年初めからニューヨーク連銀は金利を引き上げており、米国の投資家は、株式であれ金融商品であれ、国内に資金を向け始めます。

その結果、米国から海外への資金流出が1928年第2四半期の5億3千万ドルから第3四半期の1億2千万ドルへと激減しました。ドイツへの貸し付けは、第2四半期の1億5千万ドル以上から第3四半期にはほぼゼロになったと言われます。

こうして、海外からの資金流入に依存していた欧州経済(特にドイツ)への米国からの資金が突然干上がります(サドンストップ)。

オーストリアでは大きな企業グループに属する銀行が金融セクターを牛耳っていましたが、1929年に政府の肝入りでそのいくつかが、最大の銀行であった「クレジットアンシュタルト」に救済合併されました。

同行は、資金調達の35~40%を海外からの資金流入に頼っていたため、1928年以降の資金流入の減少と、大恐慌による企業グループの業績悪化から損失が拡大し、ついに1931年5月に破綻します。

オーストリア政府は同行の債務を保証すると宣言しますが、当時のオーストリア政府の歳出額が約18億シリングであるのに、同行の負債は12億シリングに上ったと言われますので、保証の実行可能性はほとんど絵に描いた餅に過ぎず、単に政府の財政と銀行の命運を一蓮托生に結び付けたのみでした。

政府の支援能力に懐疑的な預金者は、預金を引き出して金に交換したため、金準備が減少し、10月には通貨と金の交換が制限されます。また、クレジットアンシュタルトに債権を有する他の銀行に対しても、取り付け騒ぎ(預金の流出)が起こりました。

主要国の中央銀行はオーストリア中央銀行に資金を融資しますが、それが枯渇した後にはフランスが追加融資に反対する等、協調体制は脆弱でした。

金融危機は国境を越え、隣国ドイツでも国民が預金引き出しに走り、銀行危機が発生しました。国民は通貨(ライヒスマルク)を金に交換したので、1931年5月末時点の金準備の半分以上が6月半ばには失われてしまいました。

ドイツ政府は、銀行セクターを支援する財政余力を維持すべく危機の最中に財政を引き締めますが、恐慌が悪化して失業者が街にあふれるのみで、銀行危機は収束しません。

フーヴァー米大統領は、ドイツ→英仏→米国の資金の流れを1年間停止する提案を行い各国の同意を得ますが、本当に必要なのは現在の資金の流れを止めることではなく、金準備を急速に失っているドイツに対して新規の融資を行うことでした。しかしフランスは融資に政治条件を付けようとし、英米は新規融資自体に賛成しません。

欧州諸国は、自国の金準備を強化するため、保有するポンドを金に交換します。また、オーストリアやドイツへの投資の多い英国に危機が及ぶのを懸念して、民間投資家もポンドを敬遠したため、イングランド銀行は金流出を避けようと金利を引き上げますが、そうすると他国も固定相場制維持のために利上げに追随せざるを得なくなります。

その結果、金融引き締めが連鎖し、危機の最中にデフレ圧力を高めていく結果となりました。結局英国は9月に金本位制を停止し、その後のポンド暴落を放置します。