フランス哲学者「パリ五輪開会式を批判する人は無知すぎる」…心憎いほどに計算された演出に「フランスはまだまだ健在だ!」

AI要約

パリ五輪の経済効果が2500億円にもなると試算される中、開会式の演出についての賛否がある。

オリンピックに興味のない人にとって、開幕後のテレビ報道は苦痛であり、他の報道案件がないのか疑問に感じる。

フランスでは物事のネガティブな面を挑発的に表現するレトリックがあり、炎上覚悟の作品も優れたアートとして評価される。

フランス哲学者「パリ五輪開会式を批判する人は無知すぎる」…心憎いほどに計算された演出に「フランスはまだまだ健在だ!」

 国内での経済効果が2500億円にも上ると試算されたパリ五輪。そこで思い出されるのが、賛否を呼んだ開会式の演出についてだ。フランス哲学者の福田肇氏は「パリオリンピック開会式の演出に使われた伝統的な表現技法などを何も知らずに批判するのは無知すぎる」というーー。

 前回書いたが、私はオリンピックには何の関心もない。

 そういう人間にとって、オリンピックが開幕して以降の各テレビ局の報道には(毎回のことであるが)うんざりせざるをえない、というか苦痛である。どのチャンネルも、いつ観てもオリンピックの同じ試合を伝えている。他に報道しなければならない案件はないのか? それとも、オリンピックが始まるや、犯罪や社会問題が激減するのか? 国際紛争が停戦にもちこまれるのか?

 2002年のフランスで開催されたワールドカップを、「いっさい報道しません!」とフランスM6(地上波民法テレビ局)は、当時わざわざCMで流していた。国民の多くが熱狂するイヴェントを100%扱わないという自社のポリシーをあえて視聴者に強調する。日本でこれをやったら顰蹙ものだろう。しかし、ただ報道権をもっていないだけなのに、それを負け惜しみのようにあえて「自社のポリシー」に仕立て上げ、きわどいメッセージを繰り出すユーモアが、いかにもフランス一流のエッジの効いたエスプリだと、私はこれを目撃するたびに苦笑いしたものだった。

 物事や観念のネガティヴな面を、挑発的あるいは野卑なしかたで露悪的に表現する一種のレトリックを「偽悪語法」(ディスフェミスムdysphémisme)という。フランスは、ディスフェミスム大国である。

 フランスの国民的アーティスト、故セルジュ・ゲンズブール (1928-1991)は、1984年「レモン・インセスト」(Inceste de Citron)という、娘シャルロット・ゲンズブール (1971-)とのデュエット曲を発表した。直訳すれば「レモンの近親相姦」。PVでは、上半身裸のセルジュと、あられもない下着姿のシャルロット(当時まだ13歳!)がベッドのうえで戯れながら、ショパンの「別れの歌」のメロディーに載せて近親相姦を謳歌している。日本のアーティストが発表したらまちがいなく〝良識〟派の総スカンを喰らうであろうこの「炎上覚悟」の確信犯的な作品は、フランスでは、Je t’aime, moi non plusとならんで、ゲンズブールの名曲のひとつに数えあげられている(もっとも、このJe t’aime, moi non plusは、セクシーな吐息やあえぎ声を入れたため、実際に日本では放送禁止の憂き目にあった)。