1兆円の“国家プロジェクト”はなぜ失敗したのか?MRJ関係者の証言

AI要約

日本の航空宇宙産業の挑戦と挫折を明らかにする記事。

三菱重工が手がけた国産ジェット旅客機MRJの開発と、海外での売り込みの過程。

型式証明取得を目指す三菱航空機元社長の川井昭陽さんの取り組み。

1兆円の“国家プロジェクト”はなぜ失敗したのか?MRJ関係者の証言

今回のテーマは、「夢を再び!日の丸ジェット」。

世界で航空機宇宙分野の競争が激化する中、日本も新たな時代の基幹産業として育成・強化が急がれている。15年間という長い年月をかけ、1兆円を費やした国産ジェット旅客機の開発は、なぜ頓挫してしまったのか。その挫折を失敗に終わらせず、次なる挑戦への糧とすることはできるのか。6人のキーパーソンの証言から紐解き、日本の航空宇宙産業の未来を探る。

MRJ(三菱・リージョナル・ジェット)を手がけた「三菱重工」(東京・千代田区)。創業は1884年、その歴史は造船から始まり、現在は日本はおろか世界の交通インフラから防衛分野まで幅広く手がけ、ボーイング787の主翼部分の製造も行っている。

三菱重工がかつて作った零戦は、運動性能と航続距離の長さで、その名を世界にとどろかせたが、戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本の航空機開発・製造は禁止に。20年の時を経て、三菱重工が中心となり、国産プロペラ旅客機YS11の開発に成功。182機が作られ、2006年まで現役で活躍した。

その三菱重工が半世紀の時を経て挑んだのが、国産ジェット旅客機、MRJだったが、そこには大きな落とし穴が待ち受けていた。

MRJは、近距離移動のニーズをかなえる航空機で、座席数は90。三菱重工の傘下でMRJの開発を担った「三菱航空機」元社長の川井昭陽さんは、「『今後50年は飛ぶぞ』という意気込みで造った飛行機。そういう意味では残念」と話す。

10年前、長い歴史を持つ「ファンボロー航空ショー」(イギリス)で、川井さんはMRJの完成を前に、世界中の航空会社へ売り込みをかけていた。この日もアメリカの航空会社が購入を決め、受注した数は300機以上に。

川井さんは小型ジェットMU300の開発に携わり、機体の安全性を証明する“型式証明”を取得。その経験からMRJを託された。型式証明とは機体の安全性を証明するもので、機体強度や騒音、排出ガスなど、項目は400以上にも上り、運航する国ごとに必要となる。

川井さんはMRJについても、アメリカでの型式証明の取得を目指していた。