「学生時代に教師8人を殴り殺した」…ドラマ『三体』紅衛兵の実在のモデル死去

AI要約

中国の文化大革命(1966~76年)当時、教師殴打など暴力を主導した「紅衛兵」の象徴的人物、宋彬彬が16日(現地時間)、米ニューヨークで持病のため死亡した。享年77歳。

宋彬彬は新中国革命の元老で、人民解放軍初の上将の宋任窮(1909~2005)の娘だ。代表的な「紅二代」の宋は、文革が始まった年、19歳だった。

2014年、宋は他の紅衛兵とともに母校を訪れた。校庭の卞仲耘教頭の胸像に頭を下げて謝罪し、再び世論に注目された。

「学生時代に教師8人を殴り殺した」…ドラマ『三体』紅衛兵の実在のモデル死去

中国の文化大革命(1966~76年)当時、教師殴打など暴力を主導した「紅衛兵」の象徴的人物、宋彬彬が16日(現地時間)、米ニューヨークで持病のため死亡した。享年77歳。宋彬彬は生前に自身が死に追いやった教師たちに謝罪したが、結局遺族の許しを得ることはできなかった。

宋彬彬は新中国革命の元老で、人民解放軍初の上将の宋任窮(1909~2005)の娘だ。代表的な「紅二代」の宋は、文革が始まった年、19歳だった。宋は北京師範大学付属女子中学生で、教師を攻撃する内容の大字報を初めて貼り出し、暴力デモを主導した。その後、宋は天安門で行われた毛沢東の紅衛兵接見行事(66年8月18日)で、紅衛兵のトップに浮上した。

宋彬彬はこの日の行事で天安門の城楼に上がって毛沢東に「紅衛兵」の3文字が書かれた赤い腕章を巻いた。毛沢東は宋に名前が『論語』にある表と裏が調和を成すという意味の「文質彬彬の彬か」と尋ねた。宋が「そうだ」と答えると、毛沢東は「武力が必要ではないか(要武嘛)」と言った。この時から宋は名前を「要武」に変えた。

宋彬彬は天安門事件直後、宋要武の名義で官営紙の光明日報(66年8月20日付)に「私が毛沢東主席に赤い袖章(腕章)を献上した」というタイトルの文章を寄せた。党機関紙の人民日報も翌日、2面に同じ文章を掲載した。宋彬彬は「この日は私が一生忘れられない一日だった」とし、「偉大な意味の名前を得て、毛主席は私たちに方向を明らかにしてくれた。我々には暴力が必要だ」と主張した。

その後、宋彬彬は生徒が教師を殴り、子供が親を告発するなど全国的な武装闘争を扇動する象徴的な人物になった。香港明報によると、当時、宋が母校の卞仲耘教頭ら7~8人を自ら殴って死亡させたという噂も流れた。実際、ネットフリックスが製作して世界的にヒットしたドラマ『三体』の導入部で紅衛兵が教師を殴って死亡させる場面を見た多くの中国人は宋彬彬を思い出したという。

しかし、後日、宋は自身が官営紙の文章を書いていないと当時の状況を否定した。また、教師の殴打や暴力集会にも参加していないと主張した。

宋と家族も文革の刃を避けることはできなかった。1967年8月当時、東北局第1書記だった宋の父親の宋任窮は資本主義を追求する「走資派」に追い込まれ、迫害された。宋彬彬と母親もこれに関与し、受難にあった。文革が終わった後、宋は留学を名目に80年に米国に移民した。名前も宋巖に変えた。

2014年、宋は他の紅衛兵とともに母校を訪れた。校庭の卞仲耘教頭の胸像に頭を下げて謝罪し、再び世論に注目された。宋は公開謝罪文で「文革は一度の大災難だった」とし、「一国がどんな未来に進むかは自身の過去にどのように向き合うかにかかっている」と書いた。また、「過去の悲劇と過去の過ちを忘れたら悲劇は再び繰り返され、過ちを再び犯しかねない」と述べた。

しかし、卞教頭の遺族は、宋氏の謝罪を拒否した。卞教頭の夫の王晶垚・元中国科学院歴史研究員(1921-2021)は「紅衛兵の偽りの謝罪は決して受け入れられない」とし、真相究明を求めた。