[コラム]伝説の中日左腕に会って聞いた、球界から“消えた”理由「派閥、ああいうのが嫌だったんですよ」球辞苑でも話題になった松本幸行さん

AI要約

OB野球に参加する幻の左腕エース、松本幸行さんの姿が再び球界に現れる。

過去の実績や人間関係を嫌い、会社勤めの道を選んだ松本さんが、OB野球への出場を躊躇する姿が明かされる。

若き日の松本さんの投球技術や個性的なプレースタイルについて、懐かしみと期待がつづられる。

[コラム]伝説の中日左腕に会って聞いた、球界から“消えた”理由「派閥、ああいうのが嫌だったんですよ」球辞苑でも話題になった松本幸行さん

◇「壁あて」で準備、中日OB野球の参加楽しみに

 中日のOB野球(7月25日、バンテリンドームナゴヤ)に幻の左腕エース、松本幸行さん(76)が出場する。一時は消息不明とされた伝説の男がマウンドに帰ってくる。

 待ち合わせの公園に、予定より早くその姿はあった。松本さんは、野球帽をかぶった男性と立ち話をしていた。少年野球の指導者のようだ。

 「知らない人だよ。あれ、松本さんじゃないですかと声をかけられてね」

 OB野球出場が決まった時、キャッチボールの約束をした。幼少期、そして中日時代もオフは大阪市内にあるこの公園で壁当てをし、制球を磨いたそうだ。「ちぎっては投げ」「早投げのマツ」の異名を生んだ地では、今も松本さんは有名人だった。

 中年以下の世代には聞き覚えのない名前だろう。1974年には最多勝、最優秀勝率となる20勝(11完投、9敗)で中日のリーグ優勝に貢献。捕手の返球を受け、振りかぶりながらサインを見るため投球間隔が極端に短く、1時間22分で完投(1973年5月21日の大洋戦)した記録が残る。だが、伝説の男は阪急に移籍し、その後消息は途絶えた。

 気鋭のスポーツライター中村素至さんが探し当て、筆者もその紹介で知己を得て、2012年に中日スポーツで消えた天才を紹介した。死亡説、反社会勢力説がまことしやかに流布していただけに、反響は大きかった。

 「死んだとか言われとったらしいですね。でも野球界に残ろうとは思わんかったです。野球って派閥があるやないですか。ああいうのが嫌だったんですよ」

 野球は実力の世界、というのは一面にすぎない。特に引退後は、生き残るために人間関係が不可欠。そんな煩わしさを嫌った松本さんはタイトルにも過去の名声にも頼ることなく会社勤めの道を選び、引退後は、ボールを握ることさえなかった。

 今回、OB野球出席の返事は遅れた。キャッチボール後、一緒に出かけた銭湯で躊躇した理由が分かった気がした。182センチ、80キロだった現役時代とほとんど変わらぬ体形の松本さんは、湯船でぽつり言った。

 「ぼくのこと見たい人、本当におるんやろか」

 少なくとも目の前に。わが高校ではクラスの中日ファンは熱い星野推し、涼しげな松本推しに分かれた。もちろん筆者は後者。もう一度表舞台で見たい。

 「ホントに? でも、今ならボクは通用しとらんやろうねえ。だって、みんな普通に150キロとか投げてるでしょ」

 そんな剛球がなくても面白いように打ち取った。今年NHK「球辞苑」でも紹介されたピッチクロック無用の早投げ、制球力だけではあるまい。回転数やホップ成分の多さにも理由があっただろう。

 「そうかもね。回転数だったら大リーグで5勝しとるピッチャー(カブス今永昇太)がいるね」

 投球術も抜群だった。キレのいい真っすぐ、カーブに加え、受けた捕手がナチュラルにスライダーやシンカーになったという変化球は、微妙にずらした握りに秘密はあったと思う。

 「ボール球を振らそうとか、わざとボールにしようと考えたことはないね。全部ストライクゾーンで勝負ですよ」

 時空を超えた全盛期の松本さんが、岡本和真、村上宗隆を歯ぎしりさせる姿が、まぶたに浮かぶ。

    ◇

 銭湯で筆者は「21」の下靴箱を選んだ。松本さんの背番号である。帰り際、その木札を見た松本さんは「昔の野球少年みたいだ」と笑った。かつての少年たちは居酒屋へ。「壁あてを続けようと思うけど、(ホームまで)届くかなあ」。いいじゃないですか、その気持ちがうれしいんです。

(増田護)

 ▼松本幸行(まつもと・ゆきつら)1947年6月5日生まれ。大商大高、デュプロを経てドラフト4位で1970年中日入団。左投げ左打ちの投手。72年から5年連続2けた勝利をマーク。80年に阪急に移籍し、翌年限りで引退した。通算111勝98敗3セーブ、防御率3・53。