雑学とトリビアで楽しむ「国技」大相撲

AI要約

相撲は日本の伝統文化であり、優勝制度が明治時代に導入された歴史を持つ。

個人の優勝が定められるようになったのは1926年春場所からであり、優勝決定戦やプレーオフ制度が導入される。

110年ぶりの新入幕優勝を果たした尊富士についても、実質的には史上初の快挙と言える。

雑学とトリビアで楽しむ「国技」大相撲

長山 聡

相撲はスポーツであると同時に、国技といわれる日本の伝統文化。知れば大相撲観戦が2倍3倍楽しくなる、そんな雑学やトリビアを紹介する。第1弾は「優勝制度」「土俵入り」「まわし」について──。

今年3月の春場所では、尊富士(たけるふじ)が110年ぶりの新入幕優勝を果たし、土俵を大いに盛り上げた。

ところが、大相撲には明治時代(1868~1912年)の末まで「優勝」という概念はなかった。

相撲は古来、2つの勢力に分かれて戦う対抗戦だった。平安時代(794~1185年)、年に一度、宮中で催された相撲節会(せちえ)では、諸国から集められた力士は左右の近衛府に分属され、それぞれ左相撲(左方)、右相撲(右方)と呼ばれた。

江戸時代(1603~1868年)に勧進相撲と呼ばれるプロ相撲の興行が行われるようになっても、その伝統は守られた。東と西に分かれ、同じ方屋同士の対戦はなかった。

1909(明治42)年に旧両国国技館が開館すると、天候に関係なく興行が打てるようになり、西洋スポーツの影響もあって「優勝」という概念が生まれる。

ただし、相撲協会が定めたのは個人ではなく団体優勝。東西幕内の勝ち星の多いほうを優勝と定め、優勝旗を授与した。当時の相撲ファンは個々の力士を応援すること以上に、東方びいき、西方びいきに二分されていた。

同年夏場所から最優秀力士の額(優勝額)も国技館内に飾られるようになったが、これはあくまで時事新報社という一企業の懸賞扱いに過ぎず、相撲協会はノータッチ。相撲が長引くと簡単に引き分けにしたり、物言いのついたきわどい相撲は相撲協会が勝負を預かるといった江戸時代からのルールが残り、不戦勝、不戦敗という決まりもなく、Aの対戦相手Bが休場すると、Aも休場扱いになるなど合理性を欠いていた。

当然のことながら、誰がその場所で最も強かったのかはっきりしない場所も多かったが、時事新報社が独断で決めていたので、相撲協会が意義を唱えることはなかった。

ちなみに、両国国技館のこけら落しとなった1909年夏場所は、前頭7枚目・高見山が初の優勝掲額の栄誉を獲得した。だが成績は7勝3分けで、大関・太刀山の8勝2敗とどちらがチャンピンにふさわしいのか、判断は難しい。

相撲協会が正式に個人優勝を定めたのは1926(大正15)年春(1月)場所。天皇賜杯(当初は摂政賜杯)が幕内最優秀力士に授与されるようになったのがきっかけだ。これを機に、引き分け、預かりを原則廃止し、取り直し制度を導入。2年後には不戦勝・不戦敗制度も確立される。

幕内最優秀力士が複数存在した場合、当初は番付最上位が自動的に優勝するルールだった。ところが戦後、相撲人気が低迷すると、相撲協会は打開策の1つとして1947(昭和22)年から東西制を廃止し、優勝決定戦を導入。“プレーオフ”では数々のドラマが生まれ、相撲人気を盛り上げる役目を果たした。

現在では相撲協会も、時事新報社時代も含めて、1909年夏場所から個人の優勝を認めている。ゆえに今回の尊富士の新入幕場所での優勝は、両国以来110年ぶりでも問題はない。しかし、実質的には史上初の快挙といっても過言ではないのである。