83歳で電流爆破のリングに…ドリー・ファンク・ジュニアが叫んだ“信念”とは?「まだ、死ねない」ステージ4のがんと闘う愛弟子へのメッセージ

AI要約

1969年11月、NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアが日本に初めてやってきた。

日本プロレス時代のアントニオ猪木やジャイアント馬場との戦いを通じ、その強さを見せつけた。

ドリーは王者として4年3カ月にわたり、強豪たちの挑戦を退け続けた。彼のプロレスラーとしての姿勢は勝つだけではなく、贈り物を与えることにも重きを置いていた。

現在83歳のドリーは、電流爆破マッチのリングに上がり、驚異のパフォーマンスを見せたが、弟子である西村修が彼を救うために命をかけた姿も印象的だった。

83歳で電流爆破のリングに…ドリー・ファンク・ジュニアが叫んだ“信念”とは?「まだ、死ねない」ステージ4のがんと闘う愛弟子へのメッセージ

 NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアが初めて日本にやってきたのは1969年11月だった。ドリーはその2月にジン・キニスキーを倒して新王者になって10カ月目だった。

 当時28歳のドリーは日本プロレス時代のアントニオ猪木やジャイアント馬場と戦うために来日した。

 12月2日に大阪府立体育会館で行われた猪木との60分3本勝負はフルタイムのノーフォールだった。筆者はこの試合の結果を翌朝のニュースで知った後、ずいぶん経ってからテレビで見た。

 翌年、8月2日の福岡での再戦では1-1の後、60分時間切れで決着することはなかった。猪木自身は大阪の試合の方がよかったと思っていたようだが、どちらを好むかは人それぞれだろう。

 ただ2本とらなければ王座が移動しないルールを考えれば、後者の方がスリリングだったと言える。

 4年3カ月の間、ドリーはハーリー・レイスに敗れるまで前王者のキニスキーはもちろん、ルー・テーズ、ビル・ロビンソン、ジャック・ブリスコらの挑戦を退け、連日、王者としてのサーキットを繰り返していた。文字通りの強い世界王者だった。

 もう、あれから55年近い時が過ぎていた。弟のテリー・ファンクは昨年、天に召された。ドリーは83歳、もうすでに引退した身だ。リングに上がるのも大変だし、ましてや、電流爆破マッチとなると別物でもある。それでも、ドリーは請われてそのリングに上がった。テリーが大仁田と川崎球場で電流爆破マッチをやったのは1993年5月だ。

「テリーとのスタイルの違いはあるかもしれない。でも、私はプロフェッショナル・レスラーなんだ」

 ドリーのプロレスラーの定義は強くて勝つだけではなく、ファンにも主催者にも贈り物を与えるというものだ。

 だから、どんなリングにも上がるし、誰とでも戦うことができる。ただ、電流爆破の衝撃はドリーの想像以上だった。

 最初に大仁田が被爆した衝撃に、コーナーにいたドリーは立ちすくんでしまった。大仁田が電流爆破バットを握ってドリーを襲った。

 52歳の“愛弟子”西村修は人間の盾になって、ドリーを救った。

 西村自身、ステージ4の食道がんを患っている。それは全身に散らばり、脳にも転移した。手術はできないので抗がん剤治療を続けている身だ。それでも、文京区議会議員でもある西村はプロレスラーとして、電流爆破のリングに上がることを決めた。

 5歳の息子もその友達とリングに上がって西村と記念写真に収まった。西村は幼い子からの強い激励を感じていた。

「息子のためにもまだ、死ねない。私自身にはまだやり残したこと、言い続けたいことがあります。プロレスとともに、政治とともに、まだまだ生きたい」

 ドリーのスローモーションを見るようなスピニングトーホールドを引き継いだ西村は雷神矢口からギブアップを奪った。