慶大・清原正吾が語る“清原家の今”「母は涙ひとつ流さなかった」再会した父・和博の謝罪「ごめんな…」中高時代は離れた野球、当時の本音

AI要約

慶應大野球部に所属する清原正吾(21歳、4年)。中・高時代は離れた野球をなぜ大学から再び始めたのか。なぜ「名門の4番」まで上り詰めることができたのか。父・和博氏やモデルの母、弟・勝児(慶應高)とのエピソード、進路まで。

慶大・清原正吾が語る“清原家の今”「母は涙ひとつ流さなかった」再会した父・和博の謝罪「ごめんな…」中高時代は離れた野球、当時の本音

 慶應大野球部に所属する清原正吾(21歳、4年)。中・高時代は離れた野球をなぜ大学から再び始めたのか。なぜ「名門の4番」まで上り詰めることができたのか。父・和博氏やモデルの母、弟・勝児(慶應高)とのエピソード、そして進路まで…NumberWebのロングインタビューに応じた。【全3回の1回目/2~3回も公開中】

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 今春、慶應大の体育会野球部は東京六大学リーグの最終節で慶早戦に敗れた。試合後、明治神宮球場の外周で同窓生や一般のファンに囲まれていたのがリーグのベストナイン(一塁手)に輝いた清原正吾(4年、慶應高卒)だった。

 過去3年間でわずか1安打の記録しか残せていなかった正吾は、この春のリーグ戦で「4番・ファースト」の定位置を掴み、13試合に出場。52打席に立ち、14安打7打点の成績を残し、一躍“進路”にも注目が集まる存在となった。正吾は言う。

「これまでいろんなスポーツを経験し、それぞれの良いところを吸収して今の自分があると思います。野球を始めた頃は、清原和博の息子として常に見られることにプレッシャーはありました。ただ、大学生になってからは、注目していただくことをありがたいことだと思って、重圧と感じずに追い風に変えてプレーしていこうというマインドになりました」

 帰りのバスに乗り込んでいく仲間が「KEIO」のスポーツウエアを着ているなか、サインに応じていた正吾だけは胸に「KIYO」「岸和田魂」と書かれた派手なTシャツ姿だった。毎試合、応援にかけつけていた父・和博氏(大阪府岸和田市出身)のTシャツを大事な早稲田大戦の日に着ているところに、現在の良好な父子関係が透けて見える。

 大物プロ野球選手の息子として生まれ、幼少期には「パパ」という言葉がうまく発音できず、正吾は「アパ、アパ」と口にしていた。そのため、清原家ではいつしか「アパッチ」が父の呼び名となっていた。

 6歳だった2008年にはオリックスに所属していた父の引退試合にも足を運んだ。大歓声に包まれながら引退した父の背中を追うべく、慶應幼稚舎(小学校)の3年生の時に、軟式野球チームの「オール麻布」で野球を始めた。野球が大好きだった。夢はプロ野球選手だった。

「当時住んでいたマンションの部屋で、新聞紙をガムテープで丸めて、プラスチックのバットで打ったり、お台場の公園に行って父の自主トレに付き合ったりしたこともありました。父からは『センター返し』『リラックス』と基本的なことを教わりました」