上村春樹が『ザ・ガードマン』と恐れられるまで モントリオール五輪柔道無差別級金メダリストの胆力と発想力

AI要約

上村春樹氏は、柔道界で活躍し、1976年モントリオール五輪で無差別級金メダルを獲得した経歴を持つ。

神永昭夫氏から受け継いだ技を磨き、豊かな発想力を持ち、体格のハンデを克服するために努力を重ねた。

上村氏は、柔道の基本練習に徹底的に取り組み、最強の受けとして『ザ・ガードマン』として恐れられた。

上村春樹が『ザ・ガードマン』と恐れられるまで モントリオール五輪柔道無差別級金メダリストの胆力と発想力

 パリ五輪に向けたウェブ連載企画「Messages for Paris」の第19回は、1976年モントリオール五輪柔道無差別級優勝の上村春樹・講道館館長(73)に単独インタビュー。世界の頂点に立つまでの道のりを聞いた。64年東京五輪銀メダルの神永昭夫氏から受け継いだ技を磨くとともに、豊かな発想力を駆使、体格のハンデを克服する組み手や『ザ・ガードマン』と言われるほど“受けの柔道”を極めた上村氏。無差別級で金メダルという日本柔道の悲願達成の夢は、恩師の靴底を見た時から加速した―。(取材・構成=谷口 隆俊)

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 柔道の理念「柔よく剛を制す」は、柔弱な者が相手の力を巧みに利用するしなやかさで剛強な人を制するという意味だ。現役当時は174センチ、103キロと最重量級としては“小柄”な上村氏は、この言葉を体現。小さな体をあえて生かすことで最強の称号を手にした。

 「実は、私は明大に入学して最初の試合で絞め落とされてしまった。望みが高すぎた、熊本に帰ろう、と思いました」。熊本・八代東高時代に大きな実績はなかったものの、高3の福井国体で5試合全てに一本勝ちして熊本県の優勝に貢献。それが当時明大監督だった神永氏の目に留まり、1969年春、大きな志を持って上京した。だが、講道館で行われた大会の初戦で屈辱的な敗戦を喫した。

 試合後、頭からタオルをかぶって座っていると、神永監督が声をかけてくれた。「春樹、人並みにやったら人並みしかならんぞ。まして素質のないものは人の2倍、3倍練習をしなきゃチャンピオンになれないんだ」。その言葉に奮起。朝1時間、午後3時間の通常練習に加え、20分多く練習することにした。増えた練習量は年間で約40日分に相当する。当時、柔道部の休みは年40日。つまり1年間休みなしで練習した計算となる。

 「私は高校時代までは内股しかできなかった。神永先生に『世界を目指すなら担ぎ技とか他の技を覚えなさい』と言われた。だから大学1年の途中から1年かけて自分の技を変えていった」。高校の恩師・土谷新次監督の「一番身近な人の得意技を身につけなさい。それを盗むことが一番の、上達の近道だ」という言葉を思い出した。迷うことなく、神永監督の得意技だった大内刈りと体落としを習得しようと決めた。部員が多く、直接指導は受けられないから、監督が稽古をする時に技の形を必死に覚えようとした。それでも、そうは簡単に、恩師のような技はかけられなかった。

 「しかし、ある時、神永先生が道場に来られて、私が脱がれた靴を下駄箱に入れようとした時、何げなく靴を見た。大発見だった。なんだこの靴底は!? って。右足の内側だけが減っていたんだ。私と同じ左組みだった神永先生は技をかける時、少し内側に向けて踏ん張るんです。ただ、私は神永先生のようにスピードもなく、背も高くない。だから、自分の力を最大限に発揮できるようにするためには、足の着く位置はどうするのか、力の入れ方は、どうしたら大内刈りや体落としに一番役に立つだろうかと考えた。私は歩き方までマネをしたんだから」。恩師の技をマスターするまでに結局、2年以上もかかった。果たして4年生で全日本選手権に初出場し、日本学生選手権で優勝。世界学生王者の称号を手にした。

 高校時代は決して強豪とは言えない上村氏が世界を狙える位置にまで成長したのは、徹底した基本練習を行っていたからだ。

 「高校に入ってから土谷先生に言われて毎日、打ち込みを500本やった。100万本やれば、だいたい技を覚えるというのが私の考え方。1年300日練習するとして高校3年間で45万本。大学4年を合わせると105万本だ。練習後にできない時は、寮に帰ってからやった」

 目が不自由だった土谷監督は、耳で選手の状態を把握していた。「いい音を立てて投げると『今の投げ方を忘れるな』と言われた。いい音が出るということは、体勢や重心の移動がきちんとできているということ。投げる形も大事だから打ち込みをたくさん、やる。それが自分の柔道の根幹になっているんです」

 しっかりと技をかけるためには重心をスムーズに移動させなければならない。技をかけるたびに足の位置が変わってはいけないのだ。「だから、打ち込みの時、チョークで畳に足形を書いて、着地する位置を決めた。重量級だからこそ、重心の移動はきちんとしないといけない」。足の着き方にはミリ単位でこだわった。84年ロス、88年ソウル五輪95キロ超級連覇の斉藤仁の担当コーチとなった上村氏は、この方法で神永氏から受け継いだ体落としを教えた。最近、上村氏は2015年に亡くなった斉藤氏の息子でパリ五輪代表の立(たつる、JESグループ)に足の使い方を指導する機会があった。立は帰宅後、母親に「お父さんと同じ教え方だったよ」と報告したという。「母親は『当たり前じゃないの。お父さんの先生なんだから』と言ったそうだよ」。上村氏はうれしそうに笑って言った。偉大な柔道家の教えは確実に後進に伝わっているのだ。

 上村氏は旭化成に入社直後の73年に全日本選手権で優勝。75年には山下泰裕を準決勝で破って2度目のVを決めた。同年の世界選手権で初優勝。76年にはモントリオール五輪無差別級代表に選ばれた。

 決戦は7月31日。初戦の2回戦は213センチ、約170キロのパク・チョンキル(北朝鮮)から神永直伝の大内刈りでポイントを奪い優勢勝ち。ジャン・リュック・ルージェ(フランス)も送り襟締めで退けた。72年ミュンヘン五輪軽重量級金メダルの強豪ショータ・チョチョシビリ(ソ連)に優勢勝ちして決勝に進むと、キース・レムフリー(英国)に大内刈りからの上四方固めで一本勝ち。東京・神永昭夫、ミュンヘン・篠巻政利が届かなかった五輪無差別級で優勝。日本柔道の悲願を実現した。

 「私は五輪で4試合戦ったが、実は相手に5回しか技をかけさせていません」。内訳はパクの払い腰1回、ルージェ0回、チョチョシビリは支えつり込み足など2回、レムフリーも2回だ。「相手が動こうとするところに小さい力を加えると相手が一瞬止まる。続けて相手を引っ張れば、技をかけられなくなる。小さな力でいいのです。技をかけさせなければ、負けることはないわけだから」。

 釣り手の使い方も徹底的に研究した。相手の胸元に置いた手首を返して軽く押すとバランスを崩された相手は技を仕掛けられない。後日、チョチョシビリから「五輪の時は何か、おかしかった。技をかけようと思うんだけど気持ちが乗らなくて…」と告白された。その時、上村氏は「君がかけなかったんじゃない。私が君に技をかけさせなかったんだ」と種を明かした。

 75年の世界選手権準決勝で両者は対戦。チョチョシビリの返し技で2人はともに頭を打って気絶してしまった。チョチョシビリの上に乗る形で倒れた上村氏が無意識のうちにそのまま抑え込んで勝つという“伝説”の激闘だったが、翌年の再戦では上村氏が完全に試合をコントロールしていた。「君はそんなことを考えていたのか…」。のちにアントニオ猪木に異種格闘技戦で唯一、黒星をつけたことで知られるチョチョシビリは、上村氏の高度なテクニックに驚いた。

 「私は相手の動きを見て、癖を盗んだ。人は技をかける時、必ず予備動作をする。目を動かしたり、手を動かしたり。どんな技が来るかは分からない。でも予備動作が見えたら、軽く押すだけでいい。そうしたら、まず相手はバランスを崩して技をかけられない」。相手の技を未然に封じる“最強の受け”を武器にした上村氏は『ザ・ガードマン』と恐れられた。

 73年の全日本選手権優勝後、伸び悩んだ時期があった。最重量級では体格的に劣ると感じていた。そんな時、“日本のロケット開発の父”糸川英夫氏が著した「逆転の発想」という本に出会う。「兄と弟が180センチ以上あるのに、なんで私には身長をくれなかったんだって思ったこともあったけど、ちょっと待てよって考えた。体が小さいのは、ハンデではない。これは私の特徴だって。これを生かした戦い方ができないか」と発想を逆転させた。

 「大きい人が一番できないのは何だ? 小さくなることだ。それをうまく使えないかと、技の身につけ方やかけ方を考え始めた」。練習相手が少ないことを逆手にとって、「今日は大内刈りしか、かけない」という“宣言練習”を取り入れた。相手は当然、技を警戒して足を引く。「どうすれば相手に足を出させることができるか。その研究をものすごくした。だから、攻めのパターンをたくさん作ることができた」

 足腰を鍛える坂道ダッシュは、上り坂ではなく、下り坂で敢行した。「どこに足を着き、重心の移動をどうするか。下りではそれを間違えたら転んでしまう。頭の位置はどこか。重心移動は必ず、柔道の技に役立つはずだ」。最強の技と、豊かな発想力が史上3人目となる五輪、世界選手権、全日本選手権完全制覇の“グランドスラム”に導いた。

 上村氏は、亡き恩師・神永監督から聞いた東京五輪の話を教えてくれた。「神永先生は『俺は確かにヘーシンクに負けた。でも一切、悔いてはいないし、自分ではもう目いっぱい戦った。やりきったんだから、俺はそれでいいと思っている』と言われた。負けた時には、ものすごい非難の電話や手紙が来たらしい。でも先生は『自分の力を出し切れば、それが全てだ。勝ち負けは結果についてくる。勝ちがついてこなくても、受け止めなきゃならない。負けは負けと受け止め、さらに努力しなければならない』と話された。この人は、なんて、すごい人だと思った」

 多くの人が、日本初の五輪無差別級優勝を決めた上村氏は神永氏の雪辱を果たしたと言う。だが、神永氏から思いを聞かされていた上村氏は「雪辱ではないんだ」ときっぱり否定した。何度優勝を重ねても称賛の言葉をかけてくれなかった神永氏が五輪で勝った時、「よくやった」と言ってくれた。「初めてほめられたよ」。上村氏にとって、その一言こそ、恩師から初めてもらった“金メダル”だった。

 ◆上村 春樹(うえむら・はるき)1951年2月14日、熊本県生まれ。73歳。小5から柔道を始めた。八代東高、明大から旭化成。72年全日本学生、世界学生選手権、73、75年全日本選手権優勝。世界選手権は無差別級で73年2位、75年優勝。76年モントリオール五輪無差別級金メダル。80年環太平洋選手権優勝。引退後は全日本監督、全柔連強化委員長、専務理事、会長などを歴任。09年第5代講道館館長に就任した。日本オリンピック委員会強化本部長、国際柔道連盟理事なども務め、12年ロンドン五輪には日本選手団団長として参加。講道館九段。