「おれについてこい!」…日本女子バレー「東洋の魔女」をしごき上げた「鬼の大松」超スパルタ伝説の「意外な真実」

AI要約

東洋の魔女と呼ばれた日本女子バレーボールチームの偉業を紹介。過去の栄光や大松監督のスパルタ的指導に焦点を当てる。

大松監督の日記や覚書を元に、彼の勝負根性をテーマにした本が出版されるまでのストーリーを描く。

過去のオリンピックや大松監督のエピソードを通じて、スポーツの価値観や日本の歴史的背景を考察。

「おれについてこい!」…日本女子バレー「東洋の魔女」をしごき上げた「鬼の大松」超スパルタ伝説の「意外な真実」

 7月26日から開催される第33回オリンピック。パリでのオリンピック開催は100年ぶりとのことで、東京に比べるとパリ市民はずいぶん長い間、待っていたものです(それとも、もういいや、と思っていたのでしょうか? )。

 日本人の間で「オリンピック」が圧倒的支持を得た最初は、いうまでもなく1964(昭和39)年の東京オリンピック(東京五輪)でした。オリンピック関連の体育施設だけでなく、首都高速道路、新幹線などが五輪開催直前に次々と開通したことで、都市景観も一変するという、まさに敗戦からの復興五輪であったのです。女子バレーボールにおける日本の金メダルは、そんなオリンピックイベントのハイライトだったといえましょう。

 女子バレーボールチームが「東洋の魔女」と名づけられたのは、東京五輪の2年前。モスクワで行われた世界選手権で、11年連続王座にあったソ連を破り優勝したことがきっかけです。

 大会前年の1961年、大松博文監督に率いられた日紡貝塚チームは、ヨーロッパ遠征を行い22連勝を記録、さらに世界選手権直前までに64連勝まで記録を伸ばしており、「東洋の台風」と呼ばれていました。

 そして大会に入っても圧倒的な強さを見せた日本(日紡貝塚)チームに対して、ソ連のメディアが「台風ならいつかおさまるが、彼女たちの快進撃はおさまらない。東洋の台風ではなくあれは東洋の魔女だ」と書きたてたのが由来なのです。

 ただ、世界選手権開催地のソ連でこそ、こうして連日報道されていたのですが、彼女たちの偉業は日本ではそれほど大きく取り上げられていませんでした。時差の関係もあって、一般紙ではソ連戦のフルセット勝利がベタ記事扱いにしかならなかったのです。

 「ですがスポーツ新聞にちょっと書いてあったのを読むと、大松監督というのは非常にスパルタ的で日紡貝塚のお嬢さんたちを、えらくしごく“鬼の監督”と言われているという。その頃、世情はみんな左を向いていて、人権尊重とかの一辺倒でしたから、世の中の流れに反したやり方をやってる人がいるものだと。おもしろい人物なんじゃないかと興味を持ったんです」(山本康文・朝倉光男両氏による講談社70年史の対談録より)

 こうして講談社は、帰国した大松監督にラブコールを送り始めました。

 「本を書いてもらえませんでしょうか?」。学習図書第一出版部の編集者・朝倉光男さんは連日のように堺の自宅に電話攻勢をかけます。大松監督は「忙しくて寝る時間もないのに、そんなものできるわけありません」とけんもほろろ。

 ですが、朝倉さんは幾度となく粘ります。「大松さん、日記や覚書があるでしょう。それでもよろしいですからまとめてください」。それでも渋る大松監督に対し、雑誌『少年倶楽部』から異動して日が浅く、書籍編集者として駆けだしだった朝倉さんは、雑誌でよくあるインタビュー方式で一冊の本を作ることを提案したのです。

 いまでは著名人の出版物などで主流となっている口述筆記方式ですが、講談社では大松監督による『おれについてこい! わたしの勝負根性』がその先駆けだったのでした。当時、新幹線はまだ開通しておらず、録音のできるテープレコーダーも大型しかありません。朝倉さんは「デンスケ」と呼ばれたソニーの大型レコーダーを夜行列車に持ち込み、大松監督の元に通いました。