サッカー日本代表から消えた怪物「ケガして以降…」「なんで評価されへんねん」小倉隆史に平山相太、“堂安律が愛した天才パサー”の挫折

AI要約

小倉隆史は、左足の強烈なシュートで活躍し、留学先のオランダでも成功を収めたが、96年の大ケガで軸足のタメが作れなくなり、プレーの本来の力を失ってしまった。

負傷から2年半後に本格的に戦線復帰するも、決定力が鳴りを潜め、クラブを転々とした小倉は引退後、地元でサッカー普及に尽力している。

サッカー日本代表から消えた怪物「ケガして以降…」「なんで評価されへんねん」小倉隆史に平山相太、“堂安律が愛した天才パサー”の挫折

 W杯ベスト8以上の高みを見据えて戦うサッカー日本代表。これまでの歴史の中には代表に定着できなかった“消えた天才”がいた。雑誌「Sports Graphic Number」「NumberWeb」掲載記事から彼らの才能と現状を知る。(全2回/初回から読む)

<名言1>

グググッと踏ん張って長く足に乗せてたシュートが、打てなくなった。

(小倉隆史/Number995号 2020年1月17日発売)

◇解説◇

 サッカー選手には、ケガがつきものだ。例えば小野伸二は1999年のシドニー五輪アジア予選で相手選手のハードタックルを浴び、ヒザに選手生命を奪いかねない大ケガを負った。それでも天才的なテクニックは失われず、2023年まで現役生活を送ったことは驚嘆に値するのだが。

 小野のような存在がいる一方で、利き足ではない足のケガによってキャリアが大きく暗転してしまった選手がいる。

 レフティーモンスターと呼ばれた小倉である。

 小倉は左足の強烈なシュートを武器に全国高校サッカー選手権(以下、選手権)で大活躍し、四日市中央工業を日本一に導いた。さらには名古屋グランパスエイト加入後すぐに“留学”という形でオランダのエクセルシオールに所属し、リーグ戦で15ゴールを奪って得点王争いを繰り広げた。

 2020年代には珍しくなくなった「10代~20代前半で即ヨーロッパ挑戦」を30年前に成功させた先駆者で、名古屋復帰後も95年度の天皇杯制覇に大きく貢献した。そして、28年ぶりの五輪出場を狙っていた世代別日本代表でも、大エースとなるはずだった。

 そんな小倉が悲劇に襲われたのは96年のこと。五輪最終予選直前の合宿、トレーニング中に右足後十字靱帯を断裂してしまったのだ。

 大一番の最終予選どころか出場権を得たとしても五輪本番にも出られないほどの大ケガ。その事実が小倉の心に大きなダメージを与えたが……プレーでのストロングポイントをも失ってしまった。

 小倉はこのようにも回想している。

「あれ以降、軸足でタメが作れなくなった」

 再手術などを経た小倉が本格的に戦線復帰できたのは、負傷から2年半後の98年シーズンからだった。若き日の決定力は鳴りを潜め、クラブを転々とした。2003年のJ2ヴァンフォーレ甲府では久々の2ケタ得点をマークしたものの、その2シーズン後にスパイクを脱ぐことになった。

 小倉は引退後、古巣グランパスのスタッフや監督を経て、現在は三重県で地域社会人リーグを戦うFC.ISE-SHIMAで理事長と監督を兼務。故郷でのサッカー普及に奮闘している。