謎が謎を呼ぶ「サハラの墓場」、続々と見つかる石器時代のヒトの埋葬地は何を伝えるのか

AI要約

サハラ砂漠は2万1000年ごとに砂漠からサバンナに変わるサイクルがあり、4500年前には「緑のサハラ」と呼ばれる豊かな文化が存在した。

サハラ砂漠の岩絵には、緑のサハラで狩猟採集生活を営んでいた人々や動物が描かれており、セレノの発見によって新たな古代文化の手がかりが見つかった。

発見された埋葬地では、キフィアン文化やテネリアン文化の人々の遺体や動物の骨、異例の配置が見つかり、牧畜文化が栄えた環境の中での異なる生活様式が浮かび上がった。

謎が謎を呼ぶ「サハラの墓場」、続々と見つかる石器時代のヒトの埋葬地は何を伝えるのか

 サハラ砂漠はずっと砂漠だったわけではない。実際には、約2万1000年ごとに砂漠から緑豊かなサバンナに変わる。直近の湿潤期は、最終氷期末期の約1万2000年前に始まり、およそ4500年前まで続いた。この時代は「緑のサハラ」とも呼ばれている。

 緑のサハラに関する明確な手がかりは、以前から研究者の目の前にあった。

 サハラ砂漠には、豊かな狩猟採集生活を営んでいた人々の姿を伝える岩絵が数千カ所もある。凝った髪飾りを着けた人物や、槍を投げる人、矢を射る人が描かれていることもあるが、岩絵の主要なテーマは動物たちだった。カバやキリン、ゾウ、サイ、アンテロープなど、現在のアフリカのなかでも、より湿潤な地域にすむ動物だ。

 これほど生き生きとした描写が残っているにもかかわらず、人々のことはほとんど知られていない。20世紀には、サハラ砂漠で発見された重要な遺跡は数えるほどしかなかった。陶器や石器などの出土品が、緑のサハラに栄えた文化を垣間見せてくれたものの、強烈な日射や強風、砂の移動によって彼らが存在した証拠の大部分がどこかに消えてしまった。

 だからポール・セレノが、サハラ砂漠の一部であるニジェールのテネレ砂漠に、地元のラクダ飼いの人々がゴベロと呼ぶ一帯を発見したのは、奇跡に等しいことだった。加えてセレノがヒトの埋葬地を見つけたというのも意外なめぐり合わせと言える。なぜなら彼は、米シカゴ大学の古生物学者だからだ。

 埋葬の様式は大きく二つに分かれていた。古い時代の埋葬では、腕を胴体に密着させ、膝を肋骨や背骨の方にしっかり引き寄せた姿勢がとられている。埋葬の時期から、彼らはキフィアン文化と呼ばれる時代の人々だと考えられるという。約8000年前に途絶えた漁労採集文化だ。

 新しい方の墓は、キフィアン式の埋葬が終わってから約1000年後にこの地にやって来た、テネリアン文化の人々のものだという。サハラ湿潤期の後半に発達した、初期の牧畜文化をもつ民族の一つだったと考える研究者もいる。テネリアン文化のほぼすべての人が、体を横向きにして眠っているような姿勢をとっていた。

 ある墓では、女性が新生児を抱いていた。出産中に亡くなったのかもしれない。12歳の少年は、両手を頭の下に組んで枕のようにし、その右手には小鳥の骨格が握られていた。

 そのそばには、2本の歯にやすりをかけて牙のようにとがらせたと見られる男性がいた。別の場所には、大きなカメの甲羅の上に座った男性や、頭に陶器の壺をかぶった男性がいた。それらの墓は、故人について何かを伝えようとしているように思われた。

 動物の骨も多数あった。カバやキリン、魚、ワニ、カメなどだ。「セレンゲティの動物たちが勢ぞろいしていました」とセレノは言う。「規模の大きさに圧倒されました」とセレノは話す。ざっと調べたところ、この一帯に200カ所以上の埋葬地があると思われた。

 最大の驚きの一つは、この現場から発見された数千点にのぼる動物の骨のなかで、ウシの骨が1本しかなかったことだ。テネリアンのような牧畜文化の遺跡からは、もっと多くのウシの痕跡が見つかってもよいのではないか?

 セレノは、その答えは単に、ゴベロの住人が牧畜民でも遊牧民でもなかったということではないかと考えている。「ゴベロには必要なものがほとんどそろっていたので、彼らはこの土地に合わせて生活様式を変えていったのです」

※ナショナル ジオグラフィック日本版9月号特集「謎が謎を呼ぶ サハラの墓場」より抜粋。