「全部海へ流された」原爆で傷ついた広島を襲った悲劇 昭和の三大台風「枕崎台風」被爆者を含む156人が犠牲になった病院 フィルムに刻まれる被害の爪痕
枕崎台風が被爆後の広島に甚大な被害をもたらし、京都大学の調査班も犠牲となった。
被爆者を助けるために使命感に燃えて行動していた真下俊一さんは台風の直前に犠牲となった。
当時の状況を伝える元看護師の証言によると、台風前から聞こえた地鳴りが不気味な兆しとなった。
79年前の9月17日、被爆後間もない広島を襲った「枕崎台風」。原爆の惨状を記録したフィルムには甚大な被害をもたらした枕崎台風の爪痕も刻まれていました。
広島県廿日市市の宮島の対岸。1945年10月に撮影された原爆記録フィルムには、崩落した建物や地上には大きな岩が散乱しています。これは、原爆による被害ではなく、昭和の三大台風の一つ「枕崎台風」によるものでした。
崩壊した建物は大野陸軍病院です。爆心地から20キロ以上離れた病院には原爆投下後まもなく負傷者が運び込まれ治療を受けていました。しかし、台風により発生した土石流で多くの犠牲を出しました。
原爆被害の調査のために病院を訪れていた京都大学の調査班11人もまた犠牲となりました。
「ここに来たらおじいちゃんに会えるみたい。ここで亡くなって大変なことがあったんだなと偲ぶ気持ち」
京都府に住む大井千世さんです。祖父の真下俊一さん(当時57歳)を亡くしました。かつて病院があった場所に設置された慰霊碑に毎年、来ています。
京都大学医学部で教授をしていた真下さんは原爆調査班の一員でした。
1945年5月に開設された大野陸軍病院には木造2階建の本館を中心に何列もの病棟が立ち並んでいました。
8月6日ー。原爆投下後、病院には次々と負傷者が運び込まれ約100人の被爆者が収容されました。そして9月から京都大学医学部と理学部の教授や学生で構成された調査班が派遣されることになります。
真下さんの孫 大井千世さん
「患者さんを助けてあげたい。広島の病気の人を助けてあげたいという思いで、その日自分自身はお腹を壊していて、もう1日伸ばしたらと家族に言われたらしいが、早く行かなとだめだという使命感に燃えて」
患者を助けたいという思いで真下さんが15日に京都を発ったわずか2日後、枕崎台風が襲来しました。
当時、病院で看護師として被爆者の治療にあたっていた古原ユキエさんです。
病院の元看護師 古原ユキエさん(2018年取材、当時93歳)
「1週間も10日も続けて降ったんです。9月17日の朝からじゃんじゃん降りだった。その4、5日前から地鳴りというんですかね、足の下の方で、なんか変な音がするんですよ」
約1週間前から聞こえた地鳴り…。当時それが、何の音かは分かりませんでした。そして9月17日の夜、病棟から離れた寄宿舎の1階で寝ていたといいます。