二十歳のとき、何をしていたか?/堀内健 あの頃の友達との笑いを、 大人になってもやり続ける。 テレビスターに憧れた、永遠の中学生。

AI要約

堀内健は子供の頃から目立つことが好きで、中学時代は友達と一緒にふざけていた。高校生活では友達とのノリが薄れ、大人になっても同じような楽しみを見つけたいと思っていた。

大学を受験しても全落ちし、観光専門学校に通った後、東京で一人暮らしを始める。しかし、お笑いへの道にはまだ取り組んでいない。

21歳の時に芸能事務所のオーディションを受け、最初は緊張していたが最終的に渡辺プロダクションに所属することになる。最初のネタはユニークなものばかりだった。

二十歳のとき、何をしていたか?/堀内健 あの頃の友達との笑いを、 大人になってもやり続ける。 テレビスターに憧れた、永遠の中学生。

冠番組での活躍はもちろん、ゲスト欄に「堀内健」とあると俄然期待してしまう。急に二重になったり、バク転をしたり、♪ホトシュールと歌い出したり、奇想天外で目が離せないからだ。20代からテレビに出続けるベテランなのに、「ホリケン」と親しみを込めて呼べる親近感。一方で『IPPONグランプリ』で過去4回の優勝経験を持つ実力者でもある。魅力の塊みたいな堀内さんだけれど、どんな二十歳の頃を過ごしたのだろう。経歴を紐解くと、1969年の横須賀生まれ。教師の両親と妹の4人家族で、想像どおり活発に育ったという。

「父親が怖かったから家ではおとなしくして、学校ではっちゃけてましたね。変なことをやって目立つことに生きがいを感じてました。返事を大きくするとか(笑)」

 テレビとラジオに勢いがあった’70~’80年代。堀内さんも『オレたちひょうきん族』を見て友達と「あれ見た?」と盛り上がり、中学に上がると『お笑いスター誕生!!』でブレイクしたとんねるずに夢中になった。

「僕だけが目立ってるわけじゃなくて、クラスみんなが仲良くて、一緒にふざけてて。自分たちだけがわかる学校のネタもありました。特に仲のいい4人グループのヒロちゃんが最高に面白くて。ギャグもオリジナルだし、授業中にマンガとか描いちゃうし」

 中学卒業後、ヒロちゃんは長野の学校に進学して離れ離れに。高校生活も楽しかったけれど、友達は思春期を迎え、小・中学校の頃のようなノリはあまり生まれない。堀内さんの中である思いが膨らんでいった。

「中学時代みたいなことを、大人になってもやりたいなと思ったんです。それで(明石家)さんまさんやとんねるずさんに憧れたのもあったし、テレビに出たいなと。でも今みたいに養成所もないから、方法がわからない。それに『健がお笑いかよ』って言われる気がして誰にも言えなくて。目立つのは好きだけど、恥ずかしがり屋で前に出るタイプじゃなくて、ずっと隠してました」

 兎にも角にも東京に出なければと、大学を受験したが、全落ち。浪人生になるも、予備校の夏期講習を勝手にキャンセルし、返金されたお金はパチンコで使ってしまった。結局大学は諦め、市ヶ谷の東京観光専門学校(当時)へ。なぜ観光?

「『男女7人夏物語』で、さんまさんがツアコン役でカッコよかったんです。それでお笑いとツアコンの二択で悩んで(笑)」

 と言いつつ、卒業後は観光の職には就かず、渋谷の東横のれん街の『モロゾフ』で準社員のような形で働くことに。それで、阿佐ケ谷の青梅街道を渡った先の、家賃2万4000円のアパートを借りた。二十歳の堀内さんは、念願叶って東京で一人暮らしを始めたのだ。でも、ここまでお笑いへのアプローチは何もしていないような……。

「そうなんですよね(笑)。本気で何とかなるだろうと思って、ブラブラしてました。でも21歳になった頃かな、自分で何かやんないとダメだって気づいて。それで『デビュー』ってオーディション雑誌を見て、芸能事務所に片っ端から電話したんです」

 ヒロちゃんが学校でやってたことをやれば売れる、と思い一緒にやらないかと声をかけたが、「俺はいいよ」と断られ、ひとりでオーディションを受けに行った。

「人前でネタなんてやったことないから、足が震えちゃって。プロダクション人力舎、太田プロダクション、3つ目の渡辺プロダクション(現ワタナベエンターテインメント)でようやく慣れて、引っかかりました。披露したネタですか? 『1人で胴上げされながら浣腸される人』とか『自動改札を突破する男』とか(笑)」