「明鏡止水」の読み方、意味、由来とは?|忙しい現代を生きるための心の持ち方【座右の銘にしたい言葉】
年を重ねると親しい友人でも本音で意見してくれる人が減り、老後に備える必要がある。
「明鏡止水」の意味は心が澄んでいて冷静な判断を下すことを象徴しており、先人の言葉を参考にする価値がある。
「明鏡止水」という言葉は、古代中国の書物に由来し、心の静けさと澄み切っている様子を表す。
ある程度の歳になりますと、よほど親しい友人でもない限り、本音で意見してくれたり、苦言を提してくれる人などいないものです。若い人からも、徐々に敬遠されるようになってきますと、諫言(かんげん)されることもなくなります。ことによると、最も身近な、長年連れ添った伴侶からも、構われなくなっている方もいらっしゃるかも……?
そうなってから始まる“長い老後”と呼ばれる生活にあって、考え方の柔軟さを保ち、激しく変化する社会へ順応するためには、何らかの指針を持っていた方がいいのかもしれません。
温故知新の諺の如く、先人が残してくれた言葉や金言にヒントを得てみては如何でしょう。第23回の座右の銘にしたい言葉は「明鏡止水(めいきょうしすい)」 です。
「明鏡止水」について、『⼩学館デジタル⼤辞泉』では、「曇りのない鏡と静かな水。なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態をいう。」とあります。「明鏡」とは曇りのない鏡、「止水」とは静止した水を意味し、これらが合わさることで、心が静かで澄みきっていることを示します。この言葉は、動揺せずに冷静な判断を下すことができる心の持ち方を象徴しています。
「明鏡止水」とは、「明鏡」と「止水」二つの言葉が合わさってできた言葉です。中国の古典『荘子』徳充符(とくじゅうふ)にはそれぞれ、以下のような記述があります。
人莫鑑於流水、而鑑於止水、
【書き下し文】
人は流水に鑑(かんが)みるなくして、止水(しすい)に鑑みる、
【現代語訳】
人は誰も流れる水に真影(実物そのままの姿)が映らないから鑑とはしないで、静止した水に自分を映してみる
聖人は静止した水のような心を持つから、多くの人を惹きつけるのだという意味です。さらに別のところで、以下のような記述があります。
鑑明則塵垢不止、止則不明也。
【書き下し文】
鑑明らかなれば、則(すなわ)ち塵垢(じんこう)止(とど)まらず。
【現代語訳】
鑑に曇りがないのは、塵がつかないからだし、塵がつくと曇る。
賢者と一緒にいると、その人に感化されて心の曇りが取れるし、また悪者と一緒にいると心が曇るといった意味です。
これら二つの言葉が合わさり、心が澄んでいて静かに落ち着いていることのたとえとして「明鏡止水」という言葉が生まれたといわれますが、後の時代にも別々の言葉として登場しています。
前漢時代、劉安(りゅうあん)が編纂したとされる思想書『淮南子(えなんじ)』には、以下のような記述があります。
人莫鑑於流沫、而鑑於止水者、以其静也。莫窺形於生鉄、而窺於明鏡者、以其易也。
【書き下し文】
人の流沫(りゅうまつ)に鑑(かんが)みる莫(な)くして止水に鑑みるは、其(そ)の静かなるを以(もっ)てなり。形を生鉄(せいてつ)に窺(うかが)ふ莫くして明鏡に窺がふは、其の易(たひ)らかなるを以てなり。
【現代語訳】
人が流れる水を鏡とせず、静止した水を鏡とするのは、それが静かだからだ。よく鍛えていない鉄に姿を映さず、明鏡に映すのは、それが平らだからである。すなわち、ひたすら平らで、かつ静かであるものは、万物の本性をそのまま表すのだ。
どちらの書物でも意味は同じですから、漢の時代以降に「明鏡止水」という四字熟語として使われるようになったのでは、と考えられます。澄み切って穏やかな水面、心落ち着く様子がイメージされるからか、日本酒の銘柄としても使われています。