AIと「盛り」:プリクラやInstagramの「自撮り」を経て、未来の「美人」はAIが作るのか?

AI要約

自撮りや盛りに親しむ方々がAIの技術を使う際には、美人や別人になることに否定的な意見が多く見られる。しかし、AIの技術は単なる美人や別人を生成するために使われるだけではなく、人工的で相対的な自分らしさを表現するためにも活用されている。

過去の画像処理技術が美人や別人を生成する目的で使われていたことから、現在のAIの技術も同様に捉えられがちだが、その使い方は多岐にわたる。

プリクラ文化の歴史を振り返ると、盛りの目的は美人や別人になることではなく、人工的で相対的な自分らしさを表現し、他と異なる個性を楽しむことにあると理解される。

AIと「盛り」:プリクラやInstagramの「自撮り」を経て、未来の「美人」はAIが作るのか?

「自撮り」や「盛り」に親しむ方々に、話を聞かせてもらうことが多い。ここ1年くらいだろうか。そこでも「AI」という言葉を耳にするようになった。私は工学部出身で、新しい技術が作る未来を想像すると、ついわくわくしてしまうたちだ。みんなそうだと思い込んで臨んだら、面食らった。「自撮り」や「盛り」の技術のユーザたちは、「AI」の話をする時、眉をひそめる。

「AIであまり美人になるのはどうか。」

「AIであまり別人になるのはどうか。」

完全に否定するわけではないが、望ましいわけではない様子だ。こう付け加える人もいる。

「そのままの自分がいい。BeReal(*1)がいい。」

そこで疑問に思う。「AI」という言葉と、「美人」や「別人」という言葉が、なぜ結びついているのだろうか。「盛り」を支援するのは「画像処理」技術。そこに利用される「AI」の技術とは、現状こういうものだ。コンピュータが大量の画像データからパターンを学習し、それに基づいて、入力した画像の認識をしたり、加工したり、新たな画像を生成する。それは「美人」や「別人」を生成するための技術ではない。

女子大学で私が担当している授業の生徒たちに、「自撮り」や「盛り」によく利用しているスマホアプリを聞いた。そこで挙がったものを起動すると、いずれも「AI」という名の付いた機能があった。たとえば「SNOW(*2)」。下の「AI」と書かれたアイコンをタップすると、様々なテーマが一覧される。ユーザが自撮りしてできた顔画像に、「AI」の技術を使った画像処理をして、そのテーマのパターンに従った顔画像を生成してくれる。

たとえば、「漫画キャラクター」や「ゲームキャラクター」というテーマがある。それを選べば、自分の顔を元に、そのパターンに従った顔が生成される。「プロフィール」というテーマを選んで生成されるのは、いわゆる「美人」のパターンに従った顔だと考えられる。

なるほど、現状、「自撮り」や「盛り」に親しむ人々が使っている「AI」の技術は、「美人」や「別人」の生成に使われていることが多い。だから両者が結びついていたわけだ。しかしそれは「AI」の技術の使い方の、ほんの一例に過ぎない。

画像処理と「盛り」

歴史は繰り返す。「AI」の技術が導入される前の顔の「画像処理」技術も、最初は「美人」や「別人」を生成するために使われた。日本では1980年代頃から、産業用ロボットやテレビ電話のために、顔認識技術の開発が進んだ。カメラで撮影した顔画像から、目や口などの特徴点を抽出できるようになった。

1990年代には、それをエンタテインメントに利用することがさかんになった。抽出した目や口の特徴点を動かして、「美人」や「別人」の顔を生成する技術が開発された。たとえば、ゲームセンターのアミューズメントマシンに用いられた。後のプリクラのように、ユーザが顔を撮影すると、顔画像を処理して、その場で印刷するマシンだ。1993年にパナソニックが生産した「メタモルフェイス」は、ユーザーの顔の特徴を持つ大仏やゴリラなどの画像を生成した。1997年にオムロンが開発した「似テランジェロ」は、イラストレーターが描いたようなユーザの似顔絵を生成した。

これらは最先端の画像処理技術を搭載していた。しかし1995年に登場する、画像処理をしない「プリント倶楽部」の方が人気になった。そこから「プリクラ」文化が発展することになった。まもなく「プリクラ」にも画像処理技術が搭載された。最初は画像全体を明るくするようなものだった。2000年代になると、目だけを抽出して加工し、いわゆる「デカ目」の顔を生成するようになる。「デカ目」の顔は「美人」でも「別人」でもない。プリクラメーカーがユーザーインタビューを積み重ねて明らかになった、ユーザーが求める「盛れてる」顔だった。

「盛れてる」とは何なのか。なぜ「デカ目」になりたいのかと、当時私はユーザーたちに話を聞いた。そこで挙がったのは「自分らしさ」という言葉だった。「デカ目」になった顔は、もうその人の顔ではないし、皆そっくりに見える。「自分らしさ」とは反対にあるものではないかと、私は最初思った。しかし調べるうち、そこで言う「自分らしさ」とは、元からある「自分らしさ」ではなく、作る「自分らしさ」だとわかってきた。また、デカ目の人同士にはわかる差異があることもわかってきた。デカ目を選ぶ「自分らしさ」や、デカ目の中の「自分らしさ」があった。そういう人工的で相対的な「自分らしさ」を見せ合って、デカ目の人同士でコミュニケーションしていた。それこそが「盛り」の目的なのだとわかってきた。それは「美人」や「別人」の顔では達成できない。「盛れてる」顔だから達成できるものだった。

このようなプリクラの歴史を振り返れば、「盛り」に親しむ人がいま、「美人」や「別人」になるために使われている技術に、眉をひそめているのは腑に落ちる。「AI」を利用した画像処理技術もこれから、「美人」や「別人」を生成するためでなく、人工的で相対的な「自分らしさ」を生成するために、使われるようになると考える。