室町時代に実在していた驚きの呪詛「名を籠める」をご存じか

AI要約

興福寺が箸尾為国を呪詛する「名を籠める」という儀式を行った歴史的背景について述べられている。

室町時代の足利義政や今参局のエピソードを通じて、興福寺が持つ力や社会的影響力が考察されている。

興福寺の行動が当時の政治状況とどう関連していたのか、また呪詛による事件の真相が今も謎のままであることに触れられている。

室町時代に実在していた驚きの呪詛「名を籠める」をご存じか

大和国最大の荘園領主である興福寺が全山を挙げて一人の人物を呪詛する。来る日も来る日も箸尾為国(はしおためくに)もの名と罪状を唱えた。興福寺にいる1万を超す僧侶が一人の人物を呪詛したのだ。

興福寺は年貢を横領して一銭も納めない箸尾為国に対し、「名を籠める」と称し、罪状と名前(箸尾為国)、日付を記した紙片を仏前に捧げ、その身に災厄が降りかかるようひたすら祈ったと言う。

興福寺はこれより前、越前朝倉氏の10代目当主に対しこの「名を籠める」を発動していたという。

室町時代に奈良の興福寺が行なった「名を籠める」の呪詛について歴史作家・島崎晋氏が詳しく解説する。

室町幕府の8代将軍足利義政は銀閣寺(慈照寺)を創建した人、東山文化と称された文化の保護者として知られるが、将軍としての功績は皆無に等しく、応仁・文明の乱の勃発を防ぐこともできなければ、早期の終結に向け何ら積極的な働きをすることもなかった。

政治的に無能かつ無力な将軍だったからこそ、その時期の悪役たちが余計に目立つ。なかでも群を抜いていたのが今参局である。

今参局は足利義政の乳母にして愛妾。必然的に義政正室の日野富子とは対立関係となり、1459年正月9日、富子の生んだ子がその日のうちに亡くなると、今参局の呪詛によるという風聞が広まった。

ただちに調査を開始したところ、呪詛の証拠が挙がったので、今参局は琵琶湖に浮かぶ沖ノ島への配流が決まるが、護送の途中で自害した。

本当に今参局の仕業だったのか、どのような呪詛が行われたのか、押さえられた証拠は何だったのか。知りたいことは山ほどあるが、残念ながら当時の文献や歴史書は多くを語らず、右に記した以上のことはわかっていない。

可能性として一番ありえるのは、人形のような呪物が見つかり、それを仕掛けた者の供述から今参局の差し金と判明したか、すべては今参局を失脚させるための陰謀だったかのどちらかだろう。

将軍義政の時代は戦国時代の前夜にあたるが、すでに世の乱れは始まっており、有力な寺社は大名並みか、大名以上の戦力と財力を有していた。比叡山延暦寺がそうなら、奈良の興福寺も右に同じである。

興福寺は大和国最大の荘園領主でもあったが、土豪のなかには年貢を横領して一銭も納めない者もいた。箸尾為国という人物はまさしくその一人だった。

興福寺の側もこの手の反抗には慣れており、話し合いでの解決が無理と判断された時点で、最終手段の行使を躊躇わなかった。罪状と名前、日付を記した紙片を仏前に捧げ、その身に災厄が降りかかるようひたすら祈るもので、興福寺ではこれを「名を籠める」と称した。時に1486年3月のことだった。

興福寺が全山を挙げて一人の人物を呪詛する。来る日も来る日も箸尾為国の名と罪状を唱えた。僧兵をも含めれば、興福寺にいる僧侶の数は1万人を超えており、それがみな一人の人物を呪詛する光景は、見る者を戦慄させたに違いなく、話を伝え聞いた人びとも多かれ少なかれ怖気を振るったはずである。