藤原道長憎しのあまり、暴走し自滅した…ギリギリまで道長を追い詰めた定子の兄・伊周が迎えたあっけない最期

AI要約

藤原伊周は藤原道長の甥で、21歳で内大臣に昇進したが、自滅行為を繰り返し政治生命を絶たれた。

伊周は道長を恨み、道長と詮子に呪詛を送り、道長の願いにより復位するも、その恨みは収まらない様子。

伊周は亡き定子の産んだ一条天皇の第一皇子の伯父であり、その関係が道長を悩ませた。

皇后定子の兄で、藤原道長の甥である藤原伊周とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「権勢を誇った藤原道隆の遺児で、わずか21歳で内大臣にまで昇進した。父の死後は、自滅ともいえる行為を繰り返し、政治生命を絶たれた」という――。

■定子の兄・伊周が道長を恨んだワケ

 藤原道長(柄本佑)の姉で、一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)も、まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)も逝ってしまった。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第29回「母として」(7月28日放送)。

 この回の放送で、良くも悪くもいちばん存在感を示したのは、前の週に亡くなった皇后定子(高畑充希)の兄で、道長の甥である藤原伊周(三浦翔平)だったのではないだろうか。

 兄弟で花山法皇に矢を射かけて自滅した長徳2年(996)の長徳の変以降、傾いた家の再興に必死な伊周は、「藤原の筆頭に立つ」との意気込みで、声を荒らげながら長男の松(小野桜介)を指導していた。それを見た弟の隆家(竜星涼)は、「兄上の気持はわかるが、左大臣(註・道長)の権勢はもはや揺るがぬぞ」と諭したが、伊周は「揺るがせてみせる」と言い張った。

 さらには、自分が失脚し、定子が失意のまま命を落としたのも「左大臣のせいだ」と、強く思い込んで恨みを募らせ、夜な夜な道長を呪詛しはじめた。伊周の恨みは、道長に肩入れする詮子にも向けられ、詮子の病が悪化し、ついに命を落としたのは、伊周の呪詛が効いた結果であるかのようにも受けとれる描き方だった。

 史実においても、呪詛の効き目が信じられていた節があるが、ともかく、詮子は息も絶え絶えに、道長に「伊周の怨念を収めるために、位をもとに戻して」と頼み、それを受けて伊周は、ふたたび内裏への昇殿を許されたのだった。

 ところで、伊周の恨み辛みはこの先、ほんとうに収まるのだろうか。

■道長に乗り移った「死霊」の正体

 それぞれ太宰府(福岡県太宰府市)と出雲(島根県東部)に流された伊周と隆家の兄弟が、赦免されて都に戻ったのは長徳3年(997)の初夏だった。このとき、道長は早速手を打った。

 7月5日、道長は藤原公季を内大臣にし、左大臣道長、右大臣藤原顕光、内大臣公季という政権のトップの布陣を固めた。ねらいが伊周の復権を阻止することにあるのは明らかだった(伊周は失脚前、内大臣だった)。伊周ら中関白家が浮上できないのは「左大臣のせいだ」とする伊周の指摘は、外れていない。

 だが、道長自身、みずからの伊周への仕打ちに疚しさを感じていたのだろう。長女の彰子を中宮にするのに成功してから3カ月ほど経った長保2年(1000)5月19日、藤原行成の日記『権記』によれば、道長に死霊が乗り移った。どうやらこれは、道長が伊周に感じていた疚しさと関係があった。

 「死霊」の正体は、道長の長兄で伊周の父である道隆と思われ、道長の口を借り、行成に向かって次のようにいったという。「前帥を以て本官本位に復せらるべし。然れば病悩癒ゆべし(先の太宰権帥である伊周をもとの官職と官位に戻すことだ。そうすれば道長の病気も治癒することだろう)」。

 伊周の怨念を収めるために、位をもとに戻す――。これは疚しさを感じる道長にとっても、頭を離れない事案だったのだろう。ただし、このとき道隆が乗り移った道長は、こうもいったという。「此の由を申すの次には、密かに人の気色を見るべし(このことを申すときは、こっそりと人の様子を見定めるように)」。

 要するに、道長は兄の死霊の口を借りて、伊周を復位させることを一条天皇や公卿たちが望んでいるかどうか、探りを入れたとも受けとれる。

■亡き定子が残した皇子

 さて、「光る君へ」の第29回では前述のように、詮子が病没する場面が描かれた。これは長保3年(1001)閏12月22日のことで、6日前の12月16日、一条天皇は詮子の御所に行幸した。その際、天皇は伊周を正三位に戻すと決断をしている。ドラマでは、詮子が伊周の復位を頼んだのは道長だったが、史実では、一条天皇が直接うながされたようだ。

 いずれにせよ、詮子の病悩の背景には、「光る君へ」で描かれたように、伊周による呪詛がある――。そんな意識を詮子と一条天皇は共有していたと考えられる。

 次第に元来の官位と官職に近づいていった伊周だが、本人は昇進をゆっくり待つことはできず、前のめりになった。たとえば、一条天皇が定子の妹(つまり伊周の妹)である御匣殿(みくしげどの)に夢中になり、長保4年(1002)に懐妊させた際は、彼女を自宅に引きとって皇子の誕生を期待した。しかし、御匣殿は体調を崩し、出産前に息を引きとってしまうのだが。

 それでも伊周には前のめりになる理由があって、そのことが道長にとっては悩みの種となった。それは、伊周が亡き定子が産んだ一条天皇の第一皇子、敦康(あつやす)親王の伯父だった、ということである。