「生まれた娘の顔が紫色をしていて…」アルペンスキー選手・森幸 緊迫した出産現場と娘が抱えた指定難病

AI要約

森幸さんはアルペンスキー日本代表選手であり、オリンピック候補にも選ばれたが、実際には出場できずに引退した。海外での経験や努力が報われなかったことから、長野オリンピックでは通訳として参加した。

引退後、スキー技術選で活躍し、夫である森信之さんと出会った。主人として理解し受け入れてくれる姿勢に惹かれ、交際が始まった。

森さんの人生はスキーに囲まれたものであり、様々な試練を経て新たな幸せを見つけた。娘の誕生を喜びながら、周囲のざわつきに戸惑うことになる。

「生まれた娘の顔が紫色をしていて…」アルペンスキー選手・森幸 緊迫した出産現場と娘が抱えた指定難病

アルペンスキー日本代表選手としてオリンピック候補にも選ばれた森幸さん。引退後念願の娘さんを授かります。しかし生まれた瞬間、周囲がざわつく状況になって── 。(全3回中の1回目)

■スキー漬けの人生も五輪に出場できず

── アルペンスキー元日本代表の森さんは、3歳のころから「将来の夢はアルペンスキーでオリンピック出場してメダルを獲ること」と言っていたそうですね。

森さん:私はあまり覚えていませんが、そのようです。両親が長野で子ども専門のスキースクールを経営しており、物心ついたころにはスキーをしていました。小学校5年生までは1~2学期を東京、3学期を長野で過ごす生活でした。10歳からスロベニアへ渡り、7年間、生活して、18歳で日本代表に選ばれたために帰国しました。ちょうどそのころ、長野オリンピックの開催が決まり、年齢的にもそこでチャンスがあると思っていましたが、結果的にそれは叶いませんでした。

海外では、コーチと選手間で対等に話し合い互いに理解し合うことがスタンダードでしたので、よく質問をしたり「なぜ?どうして?」と聞くことが多かった気がします。そのころは、海外にいたせいか日本の文化や価値観になかなか慣れないこともありました。結果的に、全日本ナショナルチームに選抜されてオリンピック候補選手にはなりましたが、目標としていた長野オリンピックに出場できず「努力しても報われるわけではない」ことを経験しました。そのため、長野オリンピックには通訳で参加しました。

── その後は主戦場を、タイムを競うアルペンスキーから、滑りの上手さやテクニックが評価される「スキー技術選」(全日本スキー連盟〔SAJ〕が運営するスキーの総合技術を競う大会)に変えられました。ご主人の森信之さんとはそこで出会われたそうですね。

森さん:はい。夫はコーチをしていました。主人はアメリカにスキー留学していたこともあって、物事に対する考え方や価値観が似ていました。私を理解してしっかりと受けとめてくれる、とても信頼できる指導者でした。「オリンピックを目指しているときに出逢っていれば」と思ったこともあります。コーチと選手という関係が5年続いたあとで、交際することになりました。