私たちが「クイズ」を愛してやまない理由…それは「人生」を巻き込む「不遜さ」にあった

AI要約

クイズと人生の交差点で肯定される体験を描いたエッセイ。三島玲央の経験を通じて、クイズが人生を肯定し勝敗を超えるエンターテインメントであることが示唆されている。

クイズの正解が自己肯定感をもたらすことや、個々の人生における正解の存在について考察。競技クイズへの参加を通じて、クイズが人生と結びつく不思議な体験をする著者の体験談も紹介している。

クイズの問題から得た知識や正解への喜びが、人生の一部としての記憶として残ることについても触れられており、クイズが人生に楽しみや成長をもたらす側面を探求している。

私たちが「クイズ」を愛してやまない理由…それは「人生」を巻き込む「不遜さ」にあった

頭を悩ませ導き出した答えに、「ピンポン」と正解のブザーが鳴る。ゲームの勝ち負けを超えて、人生を巻き込むエンターテインメントである「クイズ」に秘められた、不遜な二面性とは?

第30回「高校生クイズ」に出場してチームを優勝に導き、いまは哲学の研究をしながらQuizKnockの運営会社batonで事業開発を手がける田村正資さんに、批評「クイズが人生と交錯するとき」をご寄稿いただきました。『群像』2024年8月号より、冒頭部分の試し読みをお届けします。

クイズ番組の決勝戦での出来事を描いた小説『君のクイズ』に次のようなシーンがある。主人公の三島玲央が過去に出場したクイズ大会で、かつて同棲していた元カノと観たアニメの問題に正解する。三島はそのときのことを振り返りながら、クイズと人生についてのひとつの立場を表明する。

僕が桐崎さんと出会っていなかったら、彼女と同棲をしていなかったら、僕は『響け!ユーフォニアム』の問題に正解することはできなかった。

クイズが僕を肯定してくれていた。君は大事なものを失ったかもしれない。でも、何かを失うことで、別の何かを得ることもある。君は正解なんだ─クイズが、そう言ってくれているみたいだった。(小川哲『君のクイズ』)

三島は、かつてのパートナーとの生活で得た知識──「クイズで勝つため」の努力とはまったく関係のないところで得られた知識──によって勝ち取った正解が、それがどんなものであるにせよ、自分のこれまでの人生を肯定してくれているように感じている。

僕にとってクイズをすることの一番の魅力は、クイズが僕の人生を肯定してくれることにあった。どんな人生であれ、それが間違いではなかったと背中を押してくれることにあった。(同書)

クイズが人生を肯定する。ここに、いま私が考えてみたいひとつの立場が表明されている。クイズが人生を肯定するとは、いったいどういうことなのか。なぜ、クイズにそんな力が宿るのか。それを考えてみたいと思っている。

それは考えるに値する問いなのか、という疑問には次のように答えよう。人生を肯定する、という主張は、ひとつの娯楽について述べられるテーゼとしてはあまりにも大袈裟過ぎる。したがって、そのような主張が出てくる背景には、なにかクイズ固有の事情があるのではないか。それを明らかにしたいと思った。

しかし、『君のクイズ』のようなフィクションで述べられただけの立場を真に受けるのか、と言われるかもしれない。その問いに対しては、かつて「競技クイズ」にのめり込んだ者として、私自身がこの大袈裟なテーゼに共感してしまっているからだ、と答えるしかない。

テレビをつければ無数のクイズ番組が放送されていて、「クイズ王」と呼ばれる存在が定期的にメディアを席巻するこの国で、自分は、なぜあんなにもクイズに惹かれたのか。そのことを、もっと深い部分で理解してみたい。これはそういう私的な試みである。

人生に正解はあるのか、と訊かれれば、ないと言うしかない。正解の人生のようなものがあり、そんな人生をおくる人たちを羨むことはあっても、人生の正解はなにかと尋ねられたら、「人それぞれだ」と答えるのが精いっぱいで、それ以上の回答は差し控えるしかない。これは人生の話だからだ。

ただ、それぞれの人間が歩んできたそれぞれの人生に、誰の目にも明白な正解のランプが点ることがある。「あなたはこれを知っていますか?」という形式で出題されるクイズに正解することは、それまでの人生を他者から部分的に肯定される体験だ。

私自身、高校に入学した直後の部活勧誘会でこの体験に魅了され、「クイズ研究部」という当時はまだまだマイナーだった部活動に3年間を捧げた。

自分の歩んできた短い人生を遡り、捻り出した答えに「ピンポン」とブザーが鳴る。このブザーは、その答えを印象的なものとして記憶させていた自分の人生の一部、人生のひとコマに向けられたファンファーレのようだ。記憶がおぼつかないところもあるが、私が初めて正解した早押しクイズは、こんな問題だった。

「足の速い人を例える言い方にも登場する、仏教の神は?」(正解は「韋駄天」)

そのときの私が誰よりも早く答えられたのは、プレイステーションで『実況パワフルプロ野球』シリーズをプレイしていたからだ。このゲームでは足の速い選手に「韋駄天」という称号がつく。その記憶がにわかに呼び起こされ、「○○天」ってたしかに神様の名前っぽいな、と答えてみたら正解だった。そのときの「ピンポン」という音に脳が痺れて、クイズ研究部に入部することを決めた。

この世界の事実を切り取っただけの知識。それが「クイズ」という形式──後にも述べるが、これは「テスト」ではダメなのだ──で問いかけられた瞬間、それは私たちの人生まで巻き込んだエンターテインメントになる。クイズと自分の人生が交錯する瞬間、そこで勝ち取った正解はゲームの勝ち負けを超えてあなたの人生さえも言祝ぐ。でも、どうして?