武田信虎を追放した子・信玄。その理由は「信虎が悪逆無道だったから」「義元と信玄の共謀」…渡邊大門が<5つの説>を検証

AI要約

天文10年、武田信虎は追放され、息子の信玄が家督を継いだ。信虎の悪行説が主な理由とされるが、真偽は定かでない。

信虎の悪行に関する話は単純すぎて信憑性に欠ける一方、信玄が民衆の期待に応えて行動したというストーリーは正統性を示すための配慮の可能性もある。

信虎の追放に続いて甲斐の民衆は喜んだが、その背景には信玄と信虎の確執や家中の抗争があった。

武田信虎を追放した子・信玄。その理由は「信虎が悪逆無道だったから」「義元と信玄の共謀」…渡邊大門が<5つの説>を検証

NHK大河ドラマでは「桶狭間の戦い」や「関ヶ原の戦い」など、大名間での存亡をかけた合戦が描かれてきました。しかし歴史学者・渡邊大門先生によると「他国の大名だけでなく、親子や兄弟、家臣との抗争も同じくらいに重要だった」そうで――。そこで今回は、渡邊先生の著書『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』から「武田信虎・信玄親子」についてご紹介します。

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◆信虎は悪人だったのか

天文10年(1541)6月14日、信濃国から本国に帰国した武田信虎は、娘婿である今川義元と面会するため駿河国に赴いた。

ところが、信玄は甲斐国と駿河国の国境を封鎖し、信虎が帰国できないようにした。行き場を失った信虎は、義元のもとでの生活を余儀なくされる。

こうして信玄は譜代の家臣の支持を受け、父の代わりに武田家の当主の座に就いたのである。以上の流れが、信虎追放事件の概略である。

信虎が追放された理由は、おおむね次の五つに集約される。

(1)信虎が悪逆無道であったため、領国支配に失敗した。

(2)今川義元と信玄による共謀。

(3)信虎と信玄の合意に基づき義元を謀ろうとした。

(4)信虎のワンマン体制に反対し、信玄と家臣が結託して謀反を起こした。

(5)対外政策をめぐって、信虎と家臣団が対立した。

◆信虎の悪行説

もっとも理由が明快な(1)説を検討することにしよう。

『勝山記』には、「この年(天文十年)六月十四日に武田大夫様(信玄)、親の信虎を駿河国へ押し越し御申し候、(中略)信虎出家めされ候て駿河に御座候」と書かれている。

この記事によると、信玄に追放された信虎は、駿河国で出家したらしい。

しかし、実際に信虎が出家したのは、復権を断念した天文12年(1543)頃といわれ、法名は無人斎道有である。

信虎が追放された理由は、先に触れたとおり「悪行」であった。信虎が出家をしたというのは、甲斐での復権を断念したということになろう。

同じく『塩山向嶽禅菴小年代記』には、「辛丑(天文十年)六月中旬(信虎が)駿府に行く。晴信、万民の愁いを済まさんと欲し、足軽を河内境(甲斐と駿河を結ぶ街道)に出し、その帰り道を断ち、(信玄が)即位して国を保つ」とある。

駿河国から甲斐国に至る道が封鎖されたので、信虎は帰国できなくなった。その直後、信玄は武田家の当主の座に就いたのだ。

すでに述べたとおり、信虎は悪逆無道の人物であったため、信玄が民衆らの期待に応えて、信虎を放逐したということになろう。

『塩山向嶽禅菴小年代記』には、このあとに続けて甲斐の民衆は大いに喜んだと記されている。つまり、信玄は悪政を行った信虎を追放し、自らが後継者となったのである。

信虎の悪行説は非常にわかりやすいが、その反面あまりに理由が単純すぎて、かえって真実味に欠ける側面がある。

信虎はかわいがっていた猿を家臣に殺されたので、その家臣を手討ちにしたという話まである。悪行説は、信玄が信虎を追放した理由を民衆の感情に押し付けた印象が強い。

さらに、民衆の期待に応えて信虎を追放したというストーリーは、信玄の正当性を担保するための後世の配慮のように思えなくもない。

本当に信虎は、悪逆無道な男だったのか。