"頑張り屋さん"の厳しい人生観が自分を不幸に陥れる…和田秀樹「人生後半を楽に生きる」ための11文字の言葉

AI要約

完全主義の頑張り屋さんは、自分の素直な感情や本音が踏みにじられて悲観的になりやすい。

幸せな老後を過ごすためには、多様な選択肢を持つことが重要。

行き詰まったら別の道を探すことが、生きる力の源。

自分への要求水準が高い人は「かくあるべし思考」に陥りやすいが、それを変えることが大切。

「頼っていいかもしれない」と考え方を転換することで、積極的に人に頼ることも可能となる。

自己チェックをして厳しい人生観を見直し、「人生には他の可能性がある」と思うことの重要性。

正しい答えを求めるよりも、結果が良ければいろいろなやり方があってよいという柔軟な考え方の重要性。

幸せな老後を過ごすには何を意識すればいいか。医師の和田秀樹さんは「自分への要求水準が高い完全主義の頑張り屋さんは、自分の素直な感情や本音が踏みにじられて、だんだん悲観的になっていく。そうではなく、なるべく多様な答えを知っているほうが時代の変化に適応できる。選択肢をいくつか持つことは、人が生きていく上でも重要なポイントだ。私は頭の固いバカになるのが一番怖いので、ずっと勉強を続けている」という――。

 ※本稿は、和田秀樹『みんなボケるんだから恐れず軽やかに老いを味わい尽くす』(SBクリエイティブ)の一部を再編集したものです。

■「かくあるべし思考」自分への要求水準が高い「頑張り屋さん」

 大企業に勤めていた、あるいは管理職だったという男性が認知症になった場合、デイサービスを利用することをすすめても大半は嫌がります。「人に頼ってはいけない」「弱った人やボケた人たちと遊ぶなんてみっともない」と思い込んでいるからです。

 精神医学の世界では、こうした考え方を「かくあるべし思考」と呼んでいます。

 人に頼ってはならない、男たるものこうでなければいけない、与えられた仕事はどんな困難があってもやり遂げなければならない、といった完全主義の人は、自分への要求水準が高い、いわば頑張り屋さんだからです。

 自分への要求が高い分、「頑張らなければいけない」と自分を追い込み、それができなかった場合、歯痒くてイライラしたり、できない自分自身を情けなく感じたりします。

 このように「かくあるべし思考」は、自分の考えで自分を縛るために、自分の素直な感情や本音が踏みにじられて、だんだん悲観的になっていきます。

 現在の精神医学の考え方では、「かくあるべし思考」とか、「この道しかない」とか思うことがもっとも心に悪いとされています。精神的な落ち込みが強くなると、うつを発症しやすくなります。

■行き詰まったら別の道を探すのが、生きる力

 東大卒の財務官僚が仕事でつまずいて出世コースから外れてしまい、それを苦にして自殺した――というニュースを聞いたとき、世間の人は総じて「エリートは挫折を知らないから短絡的に自殺を選んでしまうのだ」と言います。

 しかし、私は、生きる道はほかにたくさんあるのに、それに気づかなかったから自殺したのだと思います。

 財務省で出世できなくても、経済アナリストになる道もあれば、大学教授になる道もあるし、ベンチャー企業で活躍することもできるでしょう。

 「幸せになる」というのをゴールにすれば、いくらでも道はあるはずです。行き詰まったら、別の道を探すのが、生きる力というものでしょう。そもそも、思い通りにいかないのが人生なのですから。

 高齢になればなおのこと、どんなに頑張っても「かくあるべし」の通りには、とても生きられません。「人に頼ってはいけない」と思っていても、体や脳が弱ってくると頼らざるをえなくなります。

 だから素直に「人に頼ってもいいのだ」というふうに考え方を切り替えられるかどうか。それが、残りの人生を苦しいものにするか、楽に生きていけるかの大きな分かれ目になります。

■「頼っていいかもしれない」と切り替える

 自分は頑張って生きてきたほうだなと思う方は、自分の人生観があまりに厳しくないか自己チェックをしてみてください。さすがに年を重ねたらこれは無理だよねえ、というふうに感じる考え方は、ここで思い切って断捨離しましょう。

 そのとき、たとえば「頼ってはいけない」から「頼る」といきなり考えを切り変えるのは難しいでしょうから、「頼っていいかもしれない」とワンクッションを置いてみるといいと思います。

 「頼る」なら「そうはいかない」と思いかねませんが、「頼っていい可能性もあるよね」と考えれば、「その可能性はない」とは否定しにくいでしょう。

 いろいろなことに「かくあるべし」と答えを決めつけるのではなく、「そうかもしれない」とほかの可能性を考えることは、メンタルヘルスに良いだけでなく、判断が妥当なものとなりやすいはずです。

 私も、若い頃は「ものごとには必ず、正しい答えがある」と思いこんでいました。

 私が専攻している精神分析の世界では、フロイトの没後、いろいろな学派が勃興し、自分たちが正しいと主張し合っています。

 昔は、私もコフート学派がほかの学派より患者さんをうまく治せるし、フロイトが主張する無意識の性欲みたいな、あるのかないのかわからないものを論じるより、コフートが言うように患者さんに共感的な姿勢で接するのが正しいに決まっている、と思っていたのです。

 しかし、実際に臨床の現場で自分の正しいと思う理論を当てはめても、問題が解決しないケースがいくつも出てくるわけです。

 いまでもコフート的な治療を行っていますが、患者さんによって性格やものの考え方も違いますから、フロイト学派のように患者さんに対して家父長的な接し方をしたほうがいい場合も十分ありえることに気づきました。

 どれが正しいかという不毛な議論をするより、結果がよければ、いろいろなやり方があっていいと思えるようになったわけです。