ソプラニスタ・岡本知高が語る意外な音楽遍歴「普通の小学生では経験できない4年間を過ごしたことで、忍耐強くなったと思います」

AI要約

岡本知高は幼少期に難病を患い特別支援学校で過ごす中で音楽への愛情を育んだ。

CDデビュー20周年を迎えた岡本知高は、自身の音楽活動に感謝している。

プロデビューは日本初演の『第九』であり、音楽に対する情熱を深めた。

ソプラニスタ・岡本知高が語る意外な音楽遍歴「普通の小学生では経験できない4年間を過ごしたことで、忍耐強くなったと思います」

 奇跡の歌声とも呼ばれるクラシック音楽歌手の岡本知高。世界的にも希有な「天性の男性ソプラノ歌手」として、その歌声はジャンルの垣根を超えて人々を魅了してきた。CDデビュー20周年を迎え、テレビ番組への出演やコンサートツアーと精力的に活動している岡本知高のチェンジとは?【第3回/全5回】

 にこやかに過去を振り返りながら語ってくれた岡本さん。その明るい語り口とは裏腹に、幼少期には股関節の難病であるペルテス病を患っていた。病気のため小学1年生から4年生までの間、家族と離れて特別支援学校で過ごした。

「小学生のときに、子どもたちだけの施設で過ごしたことは僕の人生に大きな影響を与えてくれたと思います。大人のサポートはあるものの、自分でやらなければならない。周りの子どもたちもみんな親元から離れているという状況は同じなので、”寂しい“って誰も言わない。そこでは子どもながらの仲間意識や、忍耐強さが身に着いたんじゃないかって感じています。

 施設にいた子どもの中で、僕の障がいは一番軽かった。みんなそれぞれ自分の障がいを受け入れながら生活をしていた。そういう仲間たちとも歌を歌うコンサートのようなイベントがあったりして、音楽が好きになっていきました。普通の小学生では経験できない4年間を過ごしたことで、忍耐強くなったと思います」

 岡本さんは昨年、CDデビュー20周年を迎えた。デビュー当初は珍しかったソプラニスタだが、自身の活躍をどうとらえているのだろうか。

「厳しい音楽業界で今も活動ができていることが、お客さんに対しての感謝の気持ちです。こんなことを言ったら叱られてしまうかもしれませんが、僕自身は最初から歌手になりたいとか、有名になりたいという志があったわけではなかった。こんなふうに、20年間もCDを出すとか、歌手として活動できるなんて思ってもいなかった展開なんです」

――CDデビューは2003年ですが、どのようなきっかけでしたか?

「大学4年生のとき、NHKの番組に出演オファーを頂いたんです。まだ学生だったし、レコード会社も所属事務所もない状態。そんな僕に出演依頼なんてくるわけがないと思って、丁重にお断りしていたんですよ。

 それが、あるとき、おばあちゃんがNHKのテレビ番組で男性ソプラノ歌手として僕が取り上げられていたっていうんです。数年後、留学から帰国した直後に『スタジオパークからこんにちは』に出演依頼をいただきました。番組の放送後にレコード会社からデビューのお話を頂きました」

 それまで音大生だった岡本さんにとって、CDデビューは夢のような話だ。しかし、初めは音源を出すことに抵抗があったという。

「僕は、音楽というものの美しさは、この場で生まれてこの場で消えてなくなるから尊いと考えていた。そういう僕なりの美学があったので、最初はレコーディングをして音源を残すことに抵抗があったんです。

 レコード会社の人が、“コンサートに来てくださった方が家で余韻にひたれますし、地方でコンサートに来られない方も僕の歌を聴くことができる”と仰ってくださり、そうやって口説き落とされて(笑)、レコーディングすることになりましたね」

 CDデビューは2003年だが、プロとしての初舞台は少しさかのぼる。

「クラシックの演奏家の方々は、大きな演奏会をプロデビューととらえることが多いんです。僕の場合は大学3年生のときの、『第九』のソプラノソロですね」

 ベートーヴェンの交響曲第9番、通称『第九』は、第一次世界大戦中の1918年6月にドイツ人の俘虜たちによって全曲演奏の初演が行われた。岡本さんは、大学在学中の98年、『第九』の日本初演80周年記念再現リサイタルでソロを務めた。

「日本で初めて演奏された『第九』って、ドイツ兵俘虜の方たち。だから、女性がいなかったんですよ。徳島県鳴門市にあった収容所にいた俘虜の方が、町の方々に何かお返しがしたいと言って演奏したのが初めてだったんです。男性だけの『第九』が、僕のプロデビューですね」

 岡本さんにとっての転機は、音大進学を目指すようになったことだという。

「中学で吹奏楽部に入部して、サックスにのめり込んだ。高知の田舎の吹奏楽部でしたが、部員が60人ほどいたんです。みんなで音を出したときの、全身に鳥肌が立つような衝撃は忘れられない。“なんて素晴らしいんだろう”って感じました。

 コンクールで勝ち上がることはできなかったけれど、 “音楽の教師になる”っていう大きな夢ができたのがそのときですね。初めて自分でやりたいことを選んだ瞬間でした」