夫・一条天皇への愛が少女を大人に変えた…「うつけ」と呼ばれた中宮彰子が「天皇家を支える国母」になるまで

AI要約

12歳で一条天皇に嫁いだ彰子は引っ込み思案な性格だったが、藤原道長の御嶽詣でと紫式部の教育により変化を遂げ、一条天皇に受け入れられた。

彰子は夫に対し真情を告白し、その後懐妊して皇子を出産、時の一条天皇の心情を変えることとなった。

彰子の成長には、道長の行動と精神的な成長、そして紫式部による漢文の講義が大きな影響を与えた。

藤原道長の娘で、一条天皇に嫁いだ彰子とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「12歳で入内したものの、引っ込み思案な性格もあって一条天皇に受け入れられなかった。その状況を変えたのは道長の行動と紫式部の教育だ」という――。

■NHK大河で放送された衝撃的なシーン

 これまで引っ込み思案で、夫である一条天皇(塩野瑛久)の顔さえ真っすぐ見ることができなかった中宮彰子(見上愛)。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第30回「中宮の涙」(9月16日放送)では、そんな彰子が一皮むけて「大人」になる様子が描かれた。

 彰子はまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に、不意に尋ねた。「光る君に引きとられて育てられる娘は、私のようであった。私も幼きころに入内して、ここで育ったゆえ。この娘は、このあとどうなるのだ?」。

 まひろが「いま考えているところでございます」と答え、さらに「中宮様は、どうなれば良いとお思いでございますか?」と問い返すと、彰子はこう答えた。「光る君の妻になるのが良い。なれぬであろうか? 藤式部(註・まひろの後宮内での呼び名)、なれるようにしておくれ」。

 これを彰子の一条天皇への真情だと受けとったまひろは、こう促した。「中宮様、帝にまことの妻になりたいと、仰せになったらよろしいのではないでしょうか。帝をお慕いしておられましょう?」。彰子は「そのようなことをするのが私ではない」と答えるが、まひろは彰子が豊かな心の持ち主であることを説いたうえで、「その息づくお心のうちを、帝にお伝えなされませ」と、さらに促した。

 ちょうどそこに一条天皇が現れると、彰子は目に涙を溜め、半ば泣きつくように「お上、お慕いしております」と、心の内をはじめて「夫」に吐露したのである。これは視聴者にとって、かなりインパクトがある場面だったのではないだろうか。

■一条天皇を動かしたふたつの要素

 その後、一条天皇は藤原道長(柄本佑)に、「左大臣、御嶽詣でのご利益はあったのか?」と尋ねた。御嶽詣でとは、道長が長女の彰子の懐妊を願って、危険を冒してまで金峯山に参詣したことを指している。道長が「まだわかりません」と答えると、一条は「今宵、藤壺(註・彰子の後宮)に参る。その旨伝えよ」と告げた。

 つまり、一条天皇は道長の必死の御嶽詣でと彰子の告白を受けて、彰子と夜の営みをする決意をし、その予定を告げた。これはそういうシーンだった。寛弘4年(1007)も暮れに近づいている時期のことである。

 こうして彰子は、史実として年内に懐妊し、翌寛弘5年(1008)9月11日、ついに道長の念願だった皇子、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産する。

 寵愛した亡き皇后定子(高畑充希)への思いを断ち切れず、また、入内した当時、数え12歳にすぎなかった彰子を、なかなか妻として受け入れられなかった一条天皇の変化。それを促したのは、史実においても「光る君へ」で描かれたのと同様、道長の御嶽詣でによるプレッシャーと、彰子の精神的な成長だったと考えられる。そして彰子の成長には、紫式部による貢献が無視できない。

■「私、漢文を学びたい」

 彰子が入内したのは長保元年(999)で、年齢はわずかに数え12歳だった。そのころは定子が健在で、そもそも彼女は、道長の長兄である道隆の政略として入内したのだが、一条天皇とは、この時代には異例の「純愛」関係にあった。しかも、彰子が女御になったまさにその日、一条の第一皇子、敦康親王を出産しており、幼い彰子が一条から顧みられる余地など、まったくなかった。

 それから8年間、彰子は一度も懐妊することなく、存在感が薄いままだった。「光る君へ」では、そんな彼女が「うつけ」と呼ばれているという描写があったが、外れていないと思う。しかし、最高権力者の道長が大がかりな御嶽詣でを挙行してまで、彰子の懐妊を祈願しているとなれば、一条も彰子を放っておくことはできなくなったに違いない。

 加えて20歳になった彰子に、一条天皇への思いが芽生えていたことも推察される。

 そのころ、紫式部は彰子を相手に漢文の講義をはじめている。『紫式部日記』によれば、だれかに要請されたからではなく、彰子が漢文のことを知りたそうにしていたからだという。その時期は、懐妊中の寛弘5年(1008)の夏ごろからだと考えられているが、その前年だとする見方もある。

 彰子が漢文を学びたいと思うきっかけと思われる文言が、『紫式部日記』のなかにある。一条天皇が『源氏物語』を女房に読ませ、それを聞いて一条が「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし(この人、つまり紫式部は日本書紀を読んでいるに違いない。非常に才能があるはずだ)」と述べた、というくだりである。