特攻機描き、示した鎮魂 茨城・阿見で元予科練生の油絵展

AI要約

太平洋戦争で亡くなった特攻隊員らへの鎮魂の願いを込め、元海軍飛行予科練習生の加納康夫さんが戦後に描いた油絵15点を展示した「海軍機絵画展Ⅰ」が茨城県阿見町の予科練平和記念館で開催されている。

加納康夫さんは岐阜県大垣市生まれで、15歳の時に海軍飛行兵として入隊するも、終戦を迎える前に予科練教育は中止となった。

特攻隊の先輩たちへの鎮魂の思いを表現した作品が展示され、加納さんのライフワークを通じて戦後の社会に向き合う契機となる展示として注目されている。

特攻機描き、示した鎮魂 茨城・阿見で元予科練生の油絵展

 太平洋戦争で亡くなった特攻隊員らへの鎮魂の願いを込め、元海軍飛行予科練習生(予科練生)の加納康夫さんが戦後にライフワークとして描いた油絵15点を展示した「海軍機絵画展Ⅰ」が茨城県阿見町の予科練平和記念館で開かれている。作中に描かれた軍機の多くは特攻に使われた機種で、学芸員の山下裕美子さん(48)は「戦死した先輩への鎮魂の思いを表現しているのでは」と話す。10月27日まで。

 加納さんは軍靴の足音が迫る1929年、岐阜県大垣市に生まれた。37年、盧溝橋事件に端を発し、日中戦争が勃発。40年に「零式艦上戦闘機(零戦)」が制式採用されると、パイロットは花形に。41年、太平洋戦争開戦後は子ども向け雑誌にも軍人が「美談」として登場し、子どもらの憧れをかき立てた。

 こうした中、15歳だった加納さんは44年、甲種第15期予科練生として三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊。海軍飛行兵となるも45年、戦局悪化に伴い予科練教育も中止に。軍機に乗ることなく終戦を迎えた。大戦末期、毎期3万人以上を採用した予科練だが、その多くは海軍の各部隊に配属され、中には人間魚雷「回天」など海の特攻に回る者もいた。

 2008年夏、同館は加納さんから油絵33点の寄贈を受けた。今展の15点は90年代に制作された作品が中心という。「寄贈時は軍機を描いた作品に抵抗を覚える人も少なくなく、展示できる風潮ではなかった」と山下さん。だが「特攻隊が初出撃して80年がたち、戦後80年が迫る中、冷静に向き合える社会にもなってきた。先人が残した教訓を生かすも殺すも我々次第。過ちを繰り返さないため過去と向き合う契機になれば」と説く。

 軍機単体の構図が多い中、戦艦大和と護衛の零戦を描いた1枚が目を引く。山下さんは「大戦末期の日本を象徴する作品。戦後も(絵の)ライフワークで戦争と向き合った加納さんの思いにふれて」と呼びかけた。

 開館時間は午前9時~午後5時。休館は毎週月曜(祝日の場合、翌日が休み)。常設展の観覧料(一般500円など)で企画展も鑑賞可。詳しくは同館(029・891・3344)。【鈴木美穂】

 ◇予科練

 「海軍飛行予科練習生」と、その制度の略称。1930年に横須賀で生まれ、39年に霞ケ浦に移転、翌40年に土浦海軍航空隊として独立した。終戦までの15年間に約2万4000人が戦地に赴き、特攻隊としても出撃、約1万9000人が戦死した。