「決して人を幸せにするものではない」終戦から79年…94歳の被爆者と「被爆2世」女性がつなぐ“戦争の記憶”

AI要約

広島原爆被爆者の小林一男さんの生き残りの物語。戦争を直接経験した94歳の男性が特攻の意思を断り、被爆体験を語る。洗濯が間に合わず履いた冬用のズボンが彼の足を守り、生き延びた。今でも遺族に対する償いの気持ちを持ち、被爆体験を次世代に伝える。

特攻の意思を拒否し、広島原爆から生き延びる一男さんの奇跡。被爆の瞬間をリアルに語り、友人たちとの別れや生死の狭間での決断を明かす。

現在94歳で広島原爆の語り部として活躍。運命的なズボンの存在から生じた足の奇跡と、戦争の悲劇を通じた遺伝子への思いを明かす。

「決して人を幸せにするものではない」終戦から79年…94歳の被爆者と「被爆2世」女性がつなぐ“戦争の記憶”

2024年8月15日で終戦から79年を迎えた中、戦争を直接知る世代は減少している。戦争記憶の継承に心血を注ぐ、広島の原爆被爆者の男性と被爆2世で初の被爆者の全国組織で代表理事となった女性を取材した。

島根・松江市に住む小林一男さん、94歳。上官から突然「特攻」の意思確認をされたのは、陸軍の特別幹部候補生に志願し、訓練に励んでいた15歳の時だ。

広島原爆の被爆者・小林一男さん:

「お前はもし特攻隊に行けと言われたら行くか」と、いきなり質問された私はびっくりして、とっさに「私は行く気がない」とか言ってしまって…。

質問の真意は今でもわからないということだが、その後、1945年7月に陸軍船舶司令部の通信部隊があった広島市へ配属された。

そして8月6日、爆心地から1.5kmほど離れた広島市千田町で被爆。朝礼に参加していた時だった。

広島原爆の被爆者・小林一男さん:

“赤い球”が降ってきた。すると同時に爆風。被っていた帽子が半分焼け焦げて、それから着ていた半袖シャツも左半分なくなって、焼けて吹っ飛んでいた。

少しでも安全な場所へと、小林さんは集合命令に背き、仲間5人と避難できる壕(ごう)を目指し歩き始めたという。しかし…。

広島原爆の被爆者・小林一男さん:

1人、2人と落後(らくご)していってしまってね。最後に一番仲の良かったのと2人になって、途中で歩けなくなって、「どうにもならないからとにかく一緒に行こう」と、でも「もうだめだ」と言われて。足をやられていたんです。誰もが、当時は半袖、半ズボン、足をやけどしている。私はその時、たまたま幸か不幸かズボンの洗濯が間に合わなくて、履くものがなくて、長いズボンを履いて朝礼に出ていた。

命運を分けたのは、洗濯が間に合わず履いた冬用の長ズボン。やけどを免れた足で、1人歩き続けたという。

小林さんは、今や県内でも数少ない語り部(べ)として、子どもたちに被爆体験を伝えているが、その根底には、亡くなった仲間たちへの償いの気持ちもあるとしている。

広島原爆の被爆者・小林一男さん:

見捨てていってしまったこともあるし、運よく自分は助かったが、あとのみんなは亡くなってしまって、このままにしてはいけないと。それが一番語り部になった気持ちですかね。今年いっぱいくらいが限界でしょうかね。来年になるとやれるかわからない。とにかくやれるだけはやっていかないといけない。