特攻兵器“人間魚雷”を製造していた「川南造船所」解体に反対し“戦争遺産”保存を訴え続けた87歳の男性

AI要約

太平洋戦争の終盤、人間魚雷として知られる特攻兵器を製造していた川南造船所の歴史に迫る。

87歳の金子義弘さんが特攻兵器製造工場の保存活動を続けている背景を探る。

戦後の川南造船所の破産と60年にわたる廃墟化の歴史が明らかになる。

特攻兵器“人間魚雷”を製造していた「川南造船所」解体に反対し“戦争遺産”保存を訴え続けた87歳の男性

太平洋戦争の終盤、人の命を組み込んだ特攻兵器、いわゆる人間魚雷を製造していた造船所があった。解体に反対し戦争遺産の保存を訴え続けてきた87歳の男性は、実物こそが事実を伝えていくために重要だと語る。

佐賀・伊万里市山代町にある「川南造船所」跡。伊万里湾に面し、元々はガラス工場だった。

昭和15年(1940年)に造船所となり、佐世保海軍工廠の指定工場として主に輸送艦を製造。当時は2500人ほどが働いていたと言われている。

いまから79年前、昭和20年(1945年)9月に日本国内で撮影された一枚の写真がある。そこには小型の潜水艦の前でアメリカ兵が笑顔で写真に納まっている。

小型の潜水艦の名前は「海龍」。大量の爆薬を積み、敵の船を目掛けて攻撃を仕掛け、乗組員もろとも自爆する特攻兵器、いわゆる“人間魚雷”だ。

太平洋戦争が終わる直前、その特攻兵器「海龍」を製造していた工場が「川南造船所」だった。

この特攻兵器がつくられていた「川南造船所」跡地の保存活動を続けてきた人がいる。伊万里市に住む金子義弘さん。1937年生まれの87歳の男性だ。

金子さんは、小学校2年生の時に終戦を迎えた。父親は満州事変に召集され肩を負傷したという。

金子さんの案内で取材記者は「川南造船所」の跡地を訪ねた。

そこにはレンガ造りの門があった。造船所の正門ではない。正門はもっと向こうの川の近くにあったそうだが、いまはもう残っていない。

昭和20年(1945年)太平洋戦争は終盤になると、日本は物量に勝るアメリカをはじめとする連合国に押され、本土への空襲が激化していた。アメリカ軍の日本上陸の可能性が高くなり、本土決戦を見越した陸海空の特攻兵器の製造が各地で行われていた。

その製造拠点のひとつだった「川南造船所」。金子さんによると、実際に4艇ほどが完成し、あと10艇くらいが製造の途中だったという。

しかし、広島、長崎の原爆投下後に終戦を迎え、「海龍」は実戦で使用されることはなかった。

軍需工場だった川南造船所は戦後1955年に破産。跡地は以降60年にわたり廃墟となっていた。