国民の誰もがこう思っている、「何をしたかを思い出せない」岸田政権とは何だったのか

AI要約

岸田文雄首相が退陣を表明し、自民党総裁選に出馬しない意向を示す。内閣支持率の低迷と総選挙での勝利困難が影響した。

岸田は存在感薄い政治家であり、同僚大臣として地味な存在であった。外務大臣としても4年以上務めるが、特筆すべき外交実績はなかった。

官僚のレールに沿って進む岸田は、安倍首相時代には安倍の指導力を尊重し控えめな役割を果たしていた。

 (舛添 要一:国際政治学者)

 8月14日、岸田文雄首相は、9月の自民党総裁選に出馬しない意向を表明した。首相退陣である。内閣支持率は低迷を続けたままであり、次の総選挙で自民党を勝利に導くことは無理だという党内外の判断が、その決定へとつながったようである。

■ 存在感の薄かった同僚大臣

 私は、2007年から2009年まで、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の三首相に厚生労働大臣として仕えたが、岸田は、安倍・福田内閣で沖縄及び北方・科学技術政策・規制改革などの担当大臣を務めた。

 同僚大臣であるが、閣議や国会の予算委員会などで岸田がどのような発言をしたかは全く記憶にない。厚労大臣の私は年金記録問題や薬害肝炎訴訟など大きな問題を抱え、連日、野党やマスコミに追及されていたが、岸田は内閣府の特命大臣であって、世論が注目するような重要課題には無縁であった。したがって、私には、岸田の発言などに注目するような暇はなかったのであろう。

 しかし、同じ同僚の石破茂防衛大臣、鳩山邦夫法務大臣などの発言はよく覚えているし、岸田と同じ内閣府特命大臣であっても、金融・行政改革・公務員制度改革担当の渡辺喜美の言動もよく記憶に残っている。

 岸田は、もの静かで、大人しく、波風を立てない存在であった。別の言い方をすれば、存在感の希薄な政治家であった。

 岸田の思い出と言えば、同じ自民党の国会議員として岸田の広島の選挙区に応援に入ったときに、岸田が街頭で熱心に辻立ちしている姿である。地道な「田の草取り」を欠かさない努力を高く評価したものである。

 岸田は世襲政治家で3代目に当たるが、私は、彼の父親の岸田文武議員と宮沢喜一首相と食事を共にする機会があったが、お二人とも宏池会を代表するような育ちの良い「お公家」であった。岸田文雄も、その系譜の中にある。

■ 外務大臣としても国民の記憶に残らない

 2009年9月に民主党が政権に就いたが、2012年12月に自民党は政権に復帰し、第2次安倍政権が誕生した。岸田は外務大臣に就任し、第3次安倍内閣・第3次改造が行われた2017年8月3日まで、その地位にあった。河野太郎が後任外相になったが、実に4年半以上も日本外交の舵取り役だったのである。

 これだけ長い期間にわたって外務大臣を務めたら、普通なら「岸田外交」と呼ばれるような実績が積み重ねられるはずである。しかし、そのようなことはないし、岸田が首相になる前に外相だったことを覚えている国民もあまりいない。ここでも、驚くべき存在の軽さなのである。

 要するに、外務官僚の敷いたレールを踏み外すことなく、進路を定めていくので、官僚は大歓迎なのである。

 さらに言えば、安倍首相が外交で指導力を発揮していたので、秘書官のように静かに控えている岸田外相は、安倍にとっては好ましいかぎりであった。