「行方不明の日本兵1万人」を探して土を掘った2週間、「遺骨4体」しか見つからなかった現実

AI要約

硫黄島での遺骨収集団活動を通じて、なぜ日本兵1万人が消えたのかに迫る。

遺骨収集団の懸命な活動と硫黄島での環境について述べられる。

帰還後の日常と、感動を噛みしめる一幕が描かれる。

「行方不明の日本兵1万人」を探して土を掘った2週間、「遺骨4体」しか見つからなかった現実

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が11刷決定と話題だ。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

総勢37人が2週間、硫黄島に渡り、発見した遺骨は4体──。

それが、僕も参加した2019年9~10月の「令和元年度第二回硫黄島戦没者遺骨収集団」の全成果だった。

連日、炎天下の中、地熱でサウナ状態の地下壕に入り、全身、汗と土にまみれながらも、その数しか見つけられなかった。命を賭する覚悟で、腰に綱を着けて、地下16メートルまで潜入した滑走路下の地下壕マルイチでは、ゼロだった。

収集団員、厚労省職員、在島の自衛官、現地作業員……。誰一人、手を抜く人はいなかった。予定より早く壕の捜索が終わっても、休む時間を惜しみ、予定になかった別の壕の作業に取りかかった。そんな努力の末にもかかわらず、これだけしか見つからないのはなぜなのか。

ある壕では2日間かけて捜索したが、骨片すら出てこなかった。成果がないと、どうしても団員は沈んだ気持ちになる。そんな中、一人のベテラン団員が励ますように言った。

「ここの壕には誰も残されていないということを確認するのも、われわれの役目です。だからこの2日間が無駄ということでは決してないのです」

この言葉を聞いて僕は映画「硫黄島からの手紙」で硫黄島最高指揮官、栗林忠道中将を演じた渡辺謙の台詞を思い出した。「我々の子供らが日本で一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日には意味があるんです」。

あの2日間に、意味はあったのだ。

僕たち収集団一行を乗せた自衛隊機が埼玉県の航空自衛隊入間基地に帰着したのは夕方だった。基地の滑走路脇に立つ「入間ターミナル」と呼ばれる建物内で、解団式が行われた。団長が解団を宣言して慰労の言葉を述べた。最後に念を入れるように注意事項を話した。「在島中の休息日などに撮影した島内の写真はくれぐれもSNSなどにアップしないでください」。

一行は基地内からバスに乗り、入間市駅に向かった。都心方面に向かう二人と一緒に電車に乗った。すでに日は暮れていた。車窓から見える21世紀の首都圏の光景。「なんだか、ものすごくまぶしいですね」と僕は言った。

2週間、ジャングルの島で過ごしたのだから、当然だった。一人が言った。「僕たちが驚くのだから、兵隊さんたちが帰ってきたら、目を丸くするでしょうねえ。戦後ずっと暗い壕の中にいたんですからねえ」。

2週間ぶりの帰宅。軒先に立ってわが家を見て、しばし感慨に耽った。もう不発弾も崩落事故も何の不安もない日常に僕は帰ってきた。まるで復員兵のような思いが胸にこみ上げた。

インターホンを押すと、7歳の長女と5歳の長男が迎えてくれた。僕の顔を見て「パパ、真っ黒になっている」とはしゃいだ。万一のこともあるかもしれないと伝えていた妻は、安堵した表情だった。晩ご飯は手巻き寿司だった。食糧補給に難のある硫黄島の食事は冷凍食品が中心だった。連日、揚げ物が続いた。それだけに生の食材の味は心底おいしかった。

硫黄島生還者の記録によると、兵士たちの食事のおかずは乾燥わかめや乾燥野菜が中心だったという。荷揚げする海岸はあまりにも乾燥わかめの箱が多いことから「わかめ海岸」と呼ばれていた、と伝えられている。本土の味はなんとおいしいことか。僕は復員兵の感動を疑似体験した。

ところで、僕が家に着いたとき、妻は塩を小皿に入れて用意してくれていた。お葬式から帰ってきた時のように。僕は「塩は必要ないよ」と言った。今回、僕は一人でも二人でも多くの兵隊さんを本土に帰すために硫黄島に渡ったのだ。僕は霊魂を信じない。でも、一緒に帰ってきた兵隊さんが仮にいたのであれば、それは喜ばしいことだと思った。

翌朝、僕は電車に乗って東西線九段下駅で降り、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行った。靖国神社にも行った。そこで待っているかもしれない戦友たちの元に送るために。千鳥ヶ淵墓苑では、前日、入間基地での解団式をもって別れた団員二人とばったり出会った。同じことを考えている人がほかにもいた。3人で笑った。ここに来て、ようやく遺骨収集団員としてのすべての役目を終えた気がした。