原爆が奪ったのは14万人の命だけではない…一瞬で瓦礫の山になった広島城天守が往時の姿を取り戻すまで

AI要約

広島に原子爆弾が投下され、広島城の天守を含む歴史的な建造物が一瞬にして壊滅した。

崩れた天守の木材は再建の可能性もあったが、生活のために使用されてしまった。

広島城の天守は豊臣秀吉の大坂城を意識した建築であり、歴史的な価値が高かった。

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。歴史評論家の香原斗志さんは「原爆は人命だけでなく、街の歴史も思い出もすべて奪った。例えば、広島の歴史と共に歩んできた広島城天守は、一瞬にして跡形もなくなってしまった」という――。

■壮麗な5重の天守が一瞬にして崩れ落ちたときの音

 いまからちょうど79年前の昭和20年(1945)8月6日。朝から晴れ渡っていた広島市上空に1発の原子爆弾が落とされた。地上600メートルで閃光を放って炸裂したその爆弾は灼熱の火球となり、熱波が四方へ走った。爆心地周辺は地表面の温度が3000度から4000度に達したという。

 一瞬にして広島という歴史ある都市を壊滅させ、その年の暮れまでに推計で14万人の命を奪った1発の爆弾。爆心地から北北東に約400メートルから1200メートルの位置にあった広島城もまた、ひとたまりもなかった。

 本丸上段に現存し、当時の国宝に指定されていた5重5階の天守と付属する東走櫓はもちろん、本丸下段に残っていた裏御門の一部や中御門、そして二の丸の表御門、平櫓、多門櫓、太鼓櫓は、文字どおり一瞬にして失われてしまった。

 広島市編『広島原爆戦災史』第二巻には、このとき、天守の北方の陸軍幼年学校内にあった軍医部の分室から校門を出ようとしていた、増本春男衛生上等兵の以下のような目撃談が収録されている。

 「モウモウと舞い上がる砂塵のなかで、息のつまるような一瞬、聳え立つ五層の天守閣の崩れ落ちるもの凄い音が聞こえてきた。それはちょうど、山頂から無数の木材が、一度に転げ落ちて来るように、ドドドドー、ドドーと不気味に地面に響き伝わった」

■塩となって市民の糧になった

 崩れた櫓や門は、まもなく炎に包まれ焼失してしまった。しかし、天守と東走櫓は焼けることはなく、石垣の上やその周囲に、残骸の山になった無残な姿をしばらくさらしていたという。だが、昭和21年(1946)11月に撮られた写真では、すべて片づけられてしまっている。木材はどうなったのだろうか。

 それらは持ち去られ、主としてバラックを建てるための建材として、あるいは火を燃やすための薪として使われたという。昭和38年(1963)8月2日付の中国新聞には、「広島市教委の資料によると、昭和21年6月、佐伯郡水内村の人に天守の松角材五千本、杉の立ち木三十四本を譲渡」と書かれている。

 また、『広島市四百年』には、家具製造業者が、これらの木材の多くの払い下げを受けて製品化したという話や、食糧事情を改善するために、木材が燃料として製塩業者に払い下げられ、国宝が塩になって市民の糧になった、という話も紹介されている。

 残骸の山となっていようが、天守を構成していた木材が残っていれば、使用可能なものを組み、そこに新材も加えて、天守を再建することもできたかもしれない。しかし、被爆後の厳しい状況のなかで、天守の残材が、広島の人たちが生きるために使用されてしまったのは、致し方ないことだった。

■豊臣秀吉の大坂城を意識した

 この天守は、昭和20年6月29日の空襲で焼失した岡山城(岡山県岡山市)と並ぶ、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以前の建築で、すこぶる価値が高いものだった。

 毛利輝元は天正16年(1588)夏にはじめて上洛し、豊臣秀吉が築いた聚楽第を見物。続いて、秀吉に大坂城天守にも招かれている。広島城はこの上洛でカルチャーショックを受けたのちに築かれ、天守も秀吉の建築を模倣した可能性が高い。

 文禄元年(1592)4月、朝鮮出兵の拠点となった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に向かう秀吉が、広島城に立ち寄っている。天守はそのときまでに完成していた可能性が高く、そうであれば秀吉もその姿を眺めていた。あるいは、なかに入ったかもしれない。

 広島城天守の特徴だが、まず天守台の石垣は、平面がゆがんだ不等辺三角形である。これは石垣築造技術が未熟だった文禄(1592~96)から慶長(1596~1615)初期のころの特徴だ。そこに、石垣の平面に合わせて平面がゆがんだ2階建てを置き、大きな入母屋屋根をかけ、その上に3重3階の望楼が載せられた。望楼部分は別の建築を継ぎ足したかたちなので、下の階のゆがみは踏襲されていない。

 壁面は1階から4階まで下見板が張られ、窓は外側に突き上げる板戸が釣られた格子窓で、当初は下見板には黒漆が塗られていたとみられる。しかし、5階だけは白漆喰に柱や長押を露出させた真壁で、各面の両脇に釣り鐘型で装飾的な華灯窓がもうけられ、廻縁がしつらえられた。とりわけ5階の外観は、秀吉の大坂城に酷似していた。