「裏切者だけは許さない」安倍晋三元首相直筆の手帳にあった恐怖の"緑 赤 黄"色分けリストに怯えた現女性知事

AI要約

安倍晋三は裏切り者を許さず、裏切りが政治を動かす例を挙げながら、角栄や加藤の裏切り劇を紹介している。

角栄は竹下に裏切られ、竹下は独自の道を歩むも大きな代償を払うことになった。

加藤は総理就任を目指して自民党内でクーデター計画を立てるも、未遂に終わった。

■安倍晋三「裏切り者は絶対に許さない!」

 戦後最長で内閣総理大臣を務めた安倍晋三は、手帳に「裏切った者」「裏切ったが戻ってきた者」「一度も裏切らなかった者」を緑、赤、黄に色分けして書き留めていたという。そして、一度裏切った者は絶対に許さなかった。

 そのことを知っていたのが小池百合子だ。第一次安倍政権で女性初の防衛大臣に抜擢された身だったが、2012年の総裁選でかつてともに新進党を立ち上げた石破茂を担いだ。これを安倍は「裏切り」と見ていたのである。「安倍政権が長く続けば、私は党内で浮上できない」│小池はそう判断し、16年、都知事選に打って出たのである。

 政界では「裏切り」が政治そのものを動かしてきた。

 今なお慕う人の絶えない田中角栄も「裏切り」に遭った一人だ。裏切ったのは角栄率いる田中派に所属する竹下登。角栄がロッキード事件で逮捕され、刑事被告人として裁判中であるにもかかわらず、キングメーカーとして存在感を維持していた1984年12月のことだ。金丸信が主導する形で、小沢一郎、梶山清六、羽田孜らを取りまとめ、田中派内部に竹下を担ぐ一団をつくろうと画策した。そこで竹下は85年の正月、角栄に「勉強会を開きたい」と真意を隠して打診、許可を得た。

 しかし、ふたを開けてみれば80人もの議員が集まっており、事実上のクーデター、派閥乗っ取りではないかと角栄は驚嘆。ここでようやく、角栄は竹下の裏切りに気付いたのである。

 慌てて切り崩し工作を行ったが、それでも40人程度の議員が残った。このショックが元となってか、角栄は後に手足のしびれを覚えて緊急入院、脳梗塞と診断された。86年、政治活動の継続が不可能になった角栄を尻目に、竹下は「経世会」を設立。盤石と見られていた田中派は分裂した。

 ところがその後、事件が起きる。中曽根康弘政権末期で、次期総裁が取りざたされていたさなかだ。竹下、宮澤喜一、安倍晋太郎の3人が争う中、右翼団体「日本皇民党」の街宣車が執拗に「金儲けの上手い竹下さんを総理にしましょう」と国会周辺で放送して回ったのである。いわば“ほめ殺し”で、角栄を裏切った竹下に対する嫌がらせだったのだが誹謗中傷には当たらず、警察も取り締まれない。そうこうしている間に、竹下はストレスで円形脱毛症になってしまったのだ。

 何とかしなければならない、と金丸が暴力団との関係の強かった佐川急便の渡辺広康に仲介を依頼。さらに暴力団の稲川会・石井隆匡へ日本皇民党への働きかけを依頼し、竹下が田中邸へ直接謝罪に行くことをもって街宣を止めるとの話でまとまったという。

 実際、竹下が田中邸に赴いたことで街宣は止んだのだが、竹下が総理になり、佐川急便の汚職事件が明らかになると、国会議員が暴力団に問題解決を依頼したことも発覚してしまったのである。佐川急便から多額の献金を受けていた金丸は失脚、自民党に対する風当たりが強くなったことで、宇野宗佑・海部俊樹・宮澤政権を経て自民党は下野することとなった。竹下は角栄を裏切り、総理にはなったが、自民党は大きな代償を払わされたことになる。

■未遂に終わった「加藤の乱」

 もう一つ、未遂に終わった裏切り劇も紹介したい。「加藤の乱」として知られる、2000年11月の森喜朗内閣不信任を巡る騒動だ。

 森内閣はこの時点で支持率20%を切っており、かねて総理の座を狙っていた加藤紘一はここにとどめを刺すべく、やはりクーデターを画策した。民主党の菅直人と組んで、野党が提出する内閣不信任案に党内から賛成・欠席することで、可決に持ち込もうという政権転覆、その後の自身の総理就任を狙う構想を抱いていたのである。

 ところが加藤は竹下派で参院のドンといわれていた青木幹雄にこの構想を話したうえ、「青木も了承している」と口外。当然、目論見は露見し、加藤への同調を口にしていた議員たちは切り崩されていく。加藤の乱の当時、党幹事長だった野中広務に直接話を聞いたが、もともと加藤を総理に押し上げたいと考えるほど、加藤と関係の深かった野中が、切り崩し工作の先頭に立たざるをえなかったことは、歴史の皮肉といえるだろう。

 結局、加藤の同調者は不信任案が可決できる人数を割り、自民党内からの倒閣という裏切り行為は未遂に終わった。この時、それでも単独で議場へ向かい、賛成票を投じようとした加藤に縋り付き「あなたが大将なんだから、一人で突撃なんてだめですよ」と慰留したのが、加藤派の谷垣禎一だった。