持ち主は誰?沖縄戦から79年経て返還されたノートをきっかけに生まれた日米間の遺族交流 

AI要約

アメリカ兵が沖縄戦の戦利品として持ち帰ったノートと教科書が、2024年7月、持ち主の遺族のもとに返された。

ノートの持ち主は沖縄の農業の発展に貢献した人物であり、今回の返還を通して、日米の遺族の間に新たな交流が生まれた。

2024年6月1日に琉米歴史研究会の元に届いたメールをきっかけに、遺族の名前が明らかになり、持ち主の物語が明らかにされた。

宮里清松さんの苦難の歴史と、戦争を生き抜いて農学者として活躍した姿が描かれている。

持ち主は誰?沖縄戦から79年経て返還されたノートをきっかけに生まれた日米間の遺族交流 

アメリカ兵が沖縄戦の戦利品として持ち帰ったノートと教科書が、2024年7月、持ち主の遺族のもとに返された。

ノートの持ち主は沖縄の農業の発展に大きく貢献した人物であり、今回の返還を通して、日米の遺族の間に新たな交流が生まれた。

2024年6月1日、琉米歴史研究会の元に届いた1通のメール…

メールの文章

「私の名前はクラウディアキングです。父は第二次世界大戦中、沖縄に駐留していました。父が沖縄にいた間に入手した日本の書籍を、父の蔵書の中から見つけました」

琉米歴史研究会の理事長、喜舎場(きしゃば)静夫さん。

沖縄戦においてアメリカ兵は、日用品や写真などあらゆるものを戦利品として持ち帰っていて、琉米歴史研究会ではそれらを遺族のもとへとかえす活動を続けている。

Q.(戦利品のノートが)届いたのはいつ?

琉米歴史研究会 喜舎場静夫 理事長:

(6月)22日です。ちょうど沖縄の慰霊の日の前日なので、タイミング的には非常にビックリしました

アメリカ兵の遺族から送られてきたのは、2冊の教科書と1冊のノート。

表紙には「宮里清松」と書かれていて、持ち主の名前だと思われる。英語の教科書には、当時の世相を表すような例文も。

英語の例文:

「私は外国の新聞や雑誌を読んで、外国人が戦争についてどんなに思っているか知りたいのです」

教科書の至る所に赤線や書き込みがあり、持ち主が勉強熱心だったことがわかる。

喜舎場理事長が広く情報提供を求めたところ、持ち主は琉球大学農学部の名誉教授だった宮里清松さんではないかという情報が寄せられた。

1921年生まれの宮里清松さんは幼いころから学問に優れ、農学を学ぶため22歳の時に九州帝国大学に入学するも、学徒出陣を余儀なくされた。

台湾やベトナムなどを転戦し、多くの仲間の死を目の当たりにしながらも、戦火を潜り抜けた清松さんは、戦後大学に復学し、卒業。

沖縄に引き上げたのち、1950年に琉球大学が創設され、清松さんは農学部で務めることになった。