「昭和二十一年度採用」の海軍志願兵徴募ポスター 戦争のリアルとは

AI要約

1946年度に作られた海軍志願兵徴募のポスターが展示されており、未使用のまま終戦となったことが明らかになっている。

ポスターには、飛行予科練習生など、さまざまな兵種や対象年齢が印刷されており、当時の政府の戦争継続の意思が窺える。

飛行予科練習生は14~19歳を対象としており、特攻隊として戦地に赴いた者も多かった。

「昭和二十一年度採用」の海軍志願兵徴募ポスター 戦争のリアルとは

 はためく旭日(きょくじつ)旗と、3機の零戦。旧海軍省が作った海軍志願兵徴募のポスターには、「昭和二十一年度採用」とある。西暦では1946年度。戦争は終わっているが……。

 茶色く変色したこのポスター。京都府宇治市歴史資料館(同市折居台1丁目)の企画展「戦争遺品展 戦時中のくらし」で展示されている。

 「紙自体が傷み、もろくなっています。79年も前のものですから」。担当学芸員の藤岡琢矢さんは言った。

 1945(昭和20)年に作られたとみられ、全国で掲示される予定だったという。だが45年8月の広島・長崎への原爆投下や旧ソ連の対日宣戦布告などで、当時の日本政府はポツダム宣言の受諾を決定。戦争は終わった。

 ポスターが実際に使われることはなかったが、文言からは、政府が46年になっても戦争を続ける意思を持っていたことが読み取れる。

 ポスターには、徴募する兵種と年齢が印刷されている。このうち「飛行予科練習生」は、46年4月1日現在で満14~19歳が対象となっている。

 今で言えば、中学2年生も受け入れた飛行予科練習生とは何か。

 「予科練平和記念館」(茨城県阿見町)によると、熟練した航空機の搭乗員を多く育てるため、30(昭和5)年から教育が始まった。当初は14歳半~17歳の少年を全国から試験で選抜。3年間の基礎訓練などを施して搭乗員にしていた。

 終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地に赴いた。特別攻撃隊(特攻隊)として出撃した人も多く、8割にあたる1万9千人が戦死したという。