NHK大河ドラマですべては描かれない…「皇后定子の亡霊」に悩まされ続けた藤原道長の8年間

AI要約

平安時代の最高権力者、藤原道長が恐れていたものは、一条天皇の皇后である定子だった。定子が亡くなった後も、彼女の亡霊が道長を苦しめた。

道長は「一帝二后」という形を作り、自らの権力を安定させようとした。しかし、定子の急逝によって計画は中断され、道長は定子の亡霊に苦しめられることとなった。

道長は定子をいじめ、彰子を中宮に立てるなど権力の確立に努めたが、彼自身も病弱であり、定子の死に対する恐怖と疚しさに苦しんだ。

平安時代の最高権力者、藤原道長が恐れていたものとは何か。歴史評論家の香原斗志さんは「一条天皇の皇后、定子だろう。権力を掌握する上で最大の障壁だった彼女が亡くなった後も、彼女の亡霊に長い間苦しめられた」という――。

■「一帝二后」を強行した道長の狙い

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の第28回(7月21日放送)のタイトルは「一帝二后」だった。

 一条天皇(塩野瑛久)の正妻は、ずっと定子(高畑充希)ひとりだけだった。道長の長兄である道隆(井浦新)が、3つある后の枠に空席がないにもかかわらず、皇后の別称であった「中宮」という地位をあらたに設け、長女の定子を押し込んでいた。

 以来、道隆が死去しても、兄の伊周(三浦翔平)と弟の隆家(竜星涼)が不祥事を起こしたのを受け、ほかならぬ定子が出家しても、彼女は中宮のままだった。当時、出家をしてしまえば離縁したのと同様にみなされ、公卿たちが定子を見る目には厳しいものはあった。だが、それでも正妻。一条天皇は、そんな彼女を寵愛し続けた。

 そこに道長は、まだ数え12歳の長女の彰子(見上愛)を入内させた。さらには陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)の勧めにしたがい、定子を皇后にし、彰子を中宮にした。すなわち、ひとりの天皇の下に正妻を2人置くという「一帝二后」を実現させてしまった。

 道長の動機は、ドラマではあくまでも「国家安寧のため」で、私心はないとされている。だが、現実には、道長の権力を安定させるためだったと考えられる(もっとも、そのことが国家安寧にもつながるのだが)。

 それはともかくとして、「一帝二后」の状態は長くは続かなかった。彰子が中宮になったのは長保2年(1000)2月25日だが、その年の12月16日、定子は亡くなってしまったからである。

■定子が亡くなった夜に道長が見た怨霊

 ドラマでも描かれたが、定子は3人目の子を身ごもっていた。そして、第二皇女の媄子を出産したのち、後産が下りずに命を落とした。享年は数えで24歳という若さだった。

 道長は定子の死に安堵したことだろう。すでに彼女は一条天皇の第一皇子である敦康親王を出産していた。このまま敦康親王が春宮(皇太子)になり、即位をすれば、伊周ら中関白家の面々が外戚として力をもちかねない。そうなれば、道長は立場を追われるかもしれない。

 だからこそ、彰子を中宮にして一条天皇にプレッシャーをかけ、財力に頼って彰子のサロンを、一条が惹きつけられる魅力的な場として整えようとした。しかし、定子さえいなくなれば、敦康親王は存在しているものの、彰子が一条の皇子を出産する可能性も出てくるだろう。

 ところが、道長はその後も定子に苦しめられることになった。まず、定子が亡くなった長保2年12月16日のこと。悲報を受けた一条天皇は、最高権力者である左大臣道長を内裏に呼んだが、そのとき道長は自邸で怨霊に襲われ、参内できる状況ではなかったというのである。

 しばらくして参内した道長が語った内容が、ドラマでは渡辺大知が演じている藤原行成の日記『権記』に記されている。それによれば、女官の藤典侍がなにかを手にして道長に襲いかかってきたという。道長はそれを「怨霊」と認識。具体的には、最初に放った言葉から長兄の道隆の霊のようで、また、次兄の道兼の言葉のようでもあったという。

■実は病弱だった道長

 これについて、山本淳子氏はこう書く。「定子は道長にとって、小癪にも天皇に愛され続け、后として復活までして彰子の前に立ちはだかる邪魔者だった。道長は露骨に定子をいじめた。その定子の崩御は、またしても彼に転がり込んできた稀有な〈幸ひ〉だった。しかしそれは、これまでの〈幸ひ〉と同様に、人の死という不幸であった。おそらく道長は疚(やま)しさから恐怖に怯え、女官・繁子(註・藤典侍のこと)に起こった何らかの異常事態を道隆らに結び付けて、霊による報復と確信したのである」(『道長物語』朝日選書)。

 話は前後するが、第28回「一帝二后」では、道長が倒れて一時は危篤になる場面も描かれた。「光る君へ」のなかでは、これまで道長は健康な青年として描かれてきたが、史実の道長は生涯にわたって何度も倒れており、かなり病弱だった。

 実際、一帝二后が実現しておよそ2カ月を経た4月23日にも発病。続いて5月19日には、次兄の道兼の怨霊が道長に憑き、25日なると、今度は長兄の道隆の霊が乗り移ったという。後者については、行成の『権記』によれば、「伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える」と、道隆が道長をとおして訴えたという。

 まだ定子への「いじめ」を続行している最中にも、道長はそれに対する疚しさ、うしろめたさを感じ、体調を崩したり、定子の親である兄の怨霊が乗り移ったような言葉を発したりしたのかもしれない。