【光る君へ】彰子が入内して悩みが絶えず… “危篤”が描かれた道長は、何度も倒れる病弱体質だった

AI要約

藤原道長が病に臥せる様子が描かれたNHK大河ドラマ『光る君へ』。実際の史実では、道長はかなり病弱で、複数回にわたって病気に倒れていた。

道長は一帝二后の策略を巡り、病に見舞われる。神経をすり減らす状況で、病気に倒れ、時折邪気が憑いたと言われている。

兄たちの死によって地位を得た道長は、その思いを背負い、生前の彼らの影響を感じることがあった。ドラマでは、そのような病気や現象が描かれている。

【光る君へ】彰子が入内して悩みが絶えず… “危篤”が描かれた道長は、何度も倒れる病弱体質だった

 NHK大河ドラマ『光る君へ』では、藤原道長(柄本佑)は、これまで非常に丈夫な健康体の青年として描かれてきた。ところが、第28回「一帝二后」(7月21日放送)で、はじめて病に臥せった。二人目の妻である源明子のもとで倒れ、しばらく危篤の状態が続く様子が描かれたのだ。まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)にも夫の宣孝(佐々木蔵之介)から伝えられ、回復するまで必死に祈る様子が描写された。

 しかし、史実の道長はかなり病弱だった。第28回であつかわれた期間にかぎっても、体調を崩したのは、記録にあるだけでも1回きりではない。

 道長が長女で数え12歳にすぎなかった彰子(見上愛)を、一条天皇(塩野瑛久)のもとに入内させたのは、長保元年(999)11月1日だった。そして、7日になって正式に、彼女を女御として受け入れる宣旨(天皇の意向の下達)が下されたが、奇しくも同じ日に、中宮定子(高畑充希)が一条天皇の第一皇子である敦康親王を出産した。

 すると、その10日後の11月17日、ドラマでは秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』や、渡辺大知が演じている藤原行成の日記『権記』によれば、道長は「霍乱」で倒れている。これは現在の急性胃腸炎に該当する病気である。

 一条天皇が定子を盲目的に寵愛する状況にくさびを打ち、自分自身が天皇の外戚として権力を盤石にするための布石として、道長は彰子を入内させた。ところが、時を同じくして定子が皇子を産み、道長にとっては神経をすり減らす状況だったのだろう。すると、すぐに病気に見舞われるのが道長だった。

 第28回では、入内した彰子を正式に后にする道長の策略が描かれた。それがタイトルにもなった「一帝二后」である。

 定子は一条天皇の中宮、つまり正妻だった。この時代、后の枠は三つにかぎられていたが、道長の長兄で定子の父だった藤原道隆(井浦新)が定子を入内させたとき、ポストは三つとも埋まっていた。そこで道隆は、中宮が皇后の別称であることに目をつけ、皇后とは別に四つ目の后のポストとして中宮をもうけ、そこに定子を押し込んだ。

 以後、一条天皇の后はずっと定子だけだったが、道長は太皇太后のポストに空きが出たのを機に、一帝二后を画策した。皇太后を太皇太后に、皇后を皇太后に、そして中宮定子を皇后にそれぞれ横滑りさせれば、中宮のポストが空く。ひとつの天皇に二人の后という先例はなかったが、そこを強引に突破し、一条天皇の后として皇后定子と中宮彰子の二人を認めさせたのである。

 そのときも、道長は神経をすり減らしたのだろう。史上初の一帝二后が長保2年(1000)2月25日に実現すると、2カ月後の4月23日、道長は発病した。『小右記』にも、左大臣が暁から急に病悩した旨が記されている。どんな病気であったか詳細は伝わらないが、なかなか回復せず、27日には辞表を提出したほどだった。第28回で描かれた病気は、このときのものと思われる。

 それから1カ月も経たない5月19日には、今度は道長に邪気が憑いたと、行成の『権記』に記されている。ドラマでは玉置玲央が演じ、長徳元年(995)に疫病で急死した次兄の道兼が、道長の口を借りて喋ったのだという。それは「少将(道兼の維持の兼隆)をいさめるなどしてほしい」といった内容で、藤原行成は道長の口をとおして兼家がそう語るのを、直接見聞きしたというのだ。

 道長は末っ子の五男で(正妻の息子としては三男)、兄の道隆や道兼が健在なら、最高権力者に昇り詰める可能性はまずなかった。つまり、彼らの死によって現在の地位を手にしたわけで、そのことに絶えずうしろめたさを感じていたと思われる。心身が弱ったときに、その思いが「邪気」として表れたのかもしれない。

 直後の5月25日には、今度は長兄の道隆の死霊が道長に乗り移っている。『権記』によると、「伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える」と、道隆が道長をとおして訴えたのだという。

 このころの道長は、定子に嫌がらせをしながら追い詰めていた。定子が力をもち、彼女が産んだ敦康親王が春宮(皇太子)になるようなことがあれば、定子の兄で、ドラマで三浦翔平が演じる藤原伊周が天皇の外戚として力を持ちかねない。道長はそれを恐れていたが、さりとて、伊周を失脚させたことにも疚しさを感じていたのだろう。だから、兄の思いを、死霊が乗り移ったかのように語ってしまったのではないだろうか。