ピアノ「断念」が外交官への道を開いた 高名な指導者「東大行けるなら、それがいい」 国際舞台駆けた外交官 大江博氏(2)

AI要約

ピアニスト、ワイン愛好家として知られる元駐イタリア大使 大江博の異色の外交官人生を振り返る。

幼少期から音楽に情熱を注ぎ、演奏家を目指すも先生から厳しいアドバイスを受け、音楽の道を断念。

父の厳格な教育もあり、経済学部を選び外交官としての道を歩む 大江博の生い立ち。

ピアノ「断念」が外交官への道を開いた 高名な指導者「東大行けるなら、それがいい」 国際舞台駆けた外交官 大江博氏(2)

公に目にする記者会見の裏で、ときに一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は少ない。ピアニスト、ワイン愛好家として知られ、世界各地に外交官として赴任した大江博・元駐イタリア大使に、異色の外交官人生を振り返ってもらった。

■「博多」から命名

《1955年、福岡市博多区で生まれた》

「博」という私の名前は、凝った名前を付けて名前負けしないようにと、裁判官だった父が博多にちなみ付けたものです。

3歳ごろ父の転勤で大阪に移り、5歳ごろからピアノを習い始めました。5歳上の姉がピアノを習っており、母が「幼子を1人で家に残すわけにいかない」と私を一緒にレッスンに連れて行った際、「僕も習う」と駄々をこねたのです。私はピアノに夢中になりました。

大阪教育大付属高に進学したものの、教科書は学校に置きっぱなし。家では勉強を一切せず、ピアノを練習するか、クラシック・レコードを聴く毎日を送りました。

■指導者「3年前に来るべき…」

《高2の終わりごろ、音楽大学に行くか、普通の大学に行くかの選択を迫られた》

演奏家として成功する人は、日本全体で毎年1人いるかどうかという厳しい世界です。ある日、私のピアノの先生の師匠である井口愛子先生に私の演奏を聴いてもらいました。当時、国内外の主要なコンクールで入賞するのは彼女の弟子だけと言われていたほど高名な指導者です。演奏を終えた後、思い切って「今から頑張って、世界の主要コンクールで上位に入る可能性はどれほどありますか」と質問しました。すると「そのレベルを狙うのであれば、少なくとも3年以上前に私のところに来るべきだった。自分の家に住まわせて、徹底的に鍛えたのに」と言われました。

「勉強はどれぐらいできるの? 東大に行けるならそうしたらどう?」とも言われ、音大受験を断念しました。

■父は厳格、お年玉は許されず

《高3で勉強に本腰を入れ、東大経済学部に入学した》

経済学部を選んだのは、父と同じ職業を目指すことへの反抗心です。父はコツコツ型の厳格な人物。私は子供のころから「裁判官の息子」との理由で、お年玉を親戚からもらうことも許されませんでした。第二次大戦中の疎開先で、農家の方が自宅に野菜などを持ってきて置いても、父は「裁判官がそんな物をもらってはいかん」と言い、母が返しに行ったそうです。