【独自】「105票差で落選」野田元総理が朝6時から駅前でビラ配りを38年続ける理由

AI要約

38年間、毎朝のビラ配りを続ける元総理大臣の野田佳彦氏の苦悩と決意が明らかになった。彼は政治とカネに対する姿勢を語り、快適な朝を捨てて街頭での活動を続けてきた。

野田氏は、かつて異色の私塾で学んだ経験から政治の世界に飛び込み、愚直にビラ配りを通じて信念を貫いてきた。自民党の腐敗に抗い、政治改革に取り組んできた経歴を持つ。

親友である静岡県の康友知事と共に、選挙戦を戦い抜き、政治の世界に信念を貫く姿勢を示してきた野田氏。彼の人生は、困難と葛藤を乗り越えてきた決意の連続である。

【独自】「105票差で落選」野田元総理が朝6時から駅前でビラ配りを38年続ける理由

 38年間、毎朝のビラ配り続けている、立憲民主党最高顧問で元総理大臣の野田佳彦氏。その裏には“人生で最もつらい朝”が関係しているという。ABEMA的ニュースショーで密着取材した。

 政治とカネをめぐって、東京地検特捜部は、自民党派閥の裏金問題で刑事告発されていた派閥幹部や会計責任者8人、キックバックを受けていた国会議員らを不起訴処分にした。その3日後の7月11日、朝6時の千葉・JR津田沼駅前で野田氏は「ビラ配り」をしていた。

 「選挙にはカネがかかる」と言われるが、「体力の限りを尽くしていけば金がかからない。金をかけない選挙をどうするか、知恵を出すべきではないか」と、その理由を語る。

 野田氏は、岸田文雄総理に「顔を洗って出直してこい」(5月20日)と、政治とカネについての自民党の対応を批判する急先鋒だ。「『信なくば立たず』という言葉を岸田総理はよく使うが、危機的な状況になった」。天気にかかわらず街頭でのビラ配りに立ち続けてきた野田氏だが、毎日が快適な朝ではなかった。「葛藤。つらいなといつも思いながら立っている」と語る。

 なかでも、JR津田沼駅の北口に立った「一番つらかった日」を振り返る。「105票ですからね……」。

 野田氏は1980年、大学卒業後、松下幸之助氏が私財70億円を投じて設立した、指導者育成を目的とした私塾「松下政経塾」に、第1期生として入塾した。全寮制で5年学ぶなかで出会った、同い年の“マブダチ”が、静岡県の鈴木康友知事だった。

「普段は非常に寡黙でおとなしい。あまり余分なことをしゃべらない。『なんかとっつきにくいやつ』が第一印象だったが、話してみると『こいつスゴイな』となり、気が合って寮で酒を飲みながら、いろいろな話をした」(静岡県・鈴木康友知事)

 松下政経塾を卒業した野田氏は、「地盤・看板・カバン」のないなか、松下氏の教えに従って、駅頭でビラを配り続けた。鈴木氏いわく「本当に当時は、政治の世界は、雲の上の存在で、5億円あれば当選するが、4億円で落ちるという「5当4落」なる言葉もあった。庶民が近づける世界ではないが、とにかくハンドマイク1本持って、有権者に思いを語りかけるところからスタートしないといけない。それを愚直に実践したのが野田氏だった」と振り返った。

 自民党はその頃、リクルート事件や東京佐川急便事件など、政治とカネに揺れて分裂した。野田氏は1993年、細川護熙氏が率いる日本新党から、衆議院議員選挙に出馬し、初当選した。その総選挙で宮澤喜一内閣は総辞職し、自民党は野党へ転落。細川連立政権が誕生した。

 1994年の政治資金規正法改正によって、企業・団体献金の対象は政党などに限定され、パーティー券購入者の氏名の公開基準は100万円から20万円に引き下げられた。政党助成金制度も導入された。同じ政党の候補者同士が利益誘導を争うとして、衆議院は中選挙区制から小選挙区制に改められた。

 これらを実現する政治改革四法は1994年に成立し、1996年に小選挙区制で初めての総選挙が行われた。そのとき鈴木氏も、野田氏の地元に泊まり込み、親友の選挙を手伝った。

「『俺の選挙を手伝ってくれ』と言うので、1カ月以上、船橋に泊まり込んで、ずっと応援していた。最初から『金権政治を変えなきゃいけない』という強い思いがあった。当時は『金権千葉』と言われ、政治にお金が乱れ飛んでいた時代で、彼なりのやり方で突破しようとしていた」(鈴木氏)