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「ヤワラちゃん」に敗れて狂った競技人生 でも、ドジな私にできたから…16歳で五輪に出場した元選手が子どもたちに伝えたいこと
16歳の女子柔道選手、江崎史子が1988年ソウル五輪で銀メダルを獲得するも、その後は五輪メダリストになれなかったこと。
幼少期から柔道に打ち込み、全日本体重別選手権や世界選手権で活躍。熱心な合宿生活を送り、夢を追い求めた。
五輪では金メダルを目指して臨み、中国選手との決勝で接戦を繰り広げるも、敗れて銀メダル獲得。悔しさを乗り越え、次への希望を抱く。
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日本女子選手で初めて五輪の畳に立った。1988年ソウル五輪で公開競技に採用された柔道女子で、江崎史子は先陣を切って最軽量の48キロ級に出場。当時高校2年の16歳は銀メダルを獲得した。4年後は正式競技になったが、強力なライバル出現などで五輪メダリストの歴史に名を刻むことはできなかった。
小学6年の卒業文集で、将来の夢の欄に「柔道世界一」と書いた。「あなたならできると周りの人が皆言ってくれた。負けず嫌いの性格もあり、絶対になれると思い込んでいた」
一躍脚光を浴びたのは、中学2年で出場した全日本体重別選手権。52キロ級決勝で第一人者の山口香(筑波大)に敗れたものの、僅差の勝負に持ち込んだ。
通っていた松島道場(松本市)には同じ階級に同学年の泉香澄がいたため、泉より背が低かった江崎は階級を下げ、翌年は48キロ級で体重別選手権を初制覇。初出場の世界選手権は準優勝した。寝技が持ち味だった。
松本松南高1年の世界選手権でも準優勝し、翌年のソウル五輪代表に決まった。当時は毎週末のように東京で全日本合宿があり、2年に進学する春、柔道に集中するため千葉県の八千代松陰高に転校。全日本の柳沢久監督(長野市出身)の家に下宿した。
五輪を控えた夏休み。女子代表の大学生2人と柳沢監督の計4人で国内の高校を転々とした1カ月余の合宿は思い出深い。「知らない所での稽古は緊張感があり、慣れると次の学校へ行く。その繰り返しで、とてもいい勉強になった」
迎えた五輪本番。「ここまでやってこられたし、これだけ多くの人が応援してくれているから負けるわけがない」。金メダルしか考えず、その自信もあったという。
決勝は、前年の世界選手権で敗れた中国選手と当たった。お互いに手の内を知る間だが、「日本の柔道とは違う何かがあり、なかなか自分の柔道ができなかった」。開始30秒過ぎ、相手がバランスを崩した時に押さえ込もうとしたが巧みに逃げられた。終盤に効果を取られて敗れた。
「悔しくて悔しくて、私は泣くばかり」。そんな時、弟の声が聞こえた。「姉ちゃん良かったぞ」。観客席を見ると、大勢の人が拍手してくれていた。「どん底の気持ちから救われた。落ち込んでいる場合ではなく、また次を考えることができた」。帰りのバスの中では担当コーチと課題を話し合っていた。
表彰式でもらったメダルは、表のデザインは正式競技と一緒だったが、裏は違った。参加した閉会式は「何かを目指してきた者同士がお互いをたたえ合い、全てが平等になれる瞬間だった。この感動を味わえるなら4年間頑張ろうと思えた」。