「生命だけは平等」信念に地域医療に貢献…「徳洲会」創業者の徳田虎雄さん、86歳で死去

AI要約

「年中無休・24時間オープン」を理念に全国で病院や診療所を展開した医療グループ「徳洲会」創業者の徳田虎雄さんが86歳で亡くなった。

徳田さんは自身の体験を基に「どんな時でも命を助ける医師になろう」と医学部を目指し、地方医療の向上に尽力した。

また、医療の現状に批判的で政界に進出し、離島や地域医療の発展に貢献。2002年に難病のALSと診断され、05年に政界を引退。徳田氏の遺志を継ぎたいという声が残されている。

 「年中無休・24時間オープン」を理念に全国で病院や診療所を展開し、政界にも進出した医療グループ「徳洲会」創業者の徳田虎雄さんが86歳で亡くなった。「生命(いのち)だけは平等だ」との信念を掲げ、地域医療の向上に貢献した徳田さんの訃報(ふほう)に、関係者は「地方に病院をつくり、多くの人の命を救ってくれた」と惜しんだ。

 鹿児島県・徳之島出身。自伝などによると、子どもの頃、弟が急病になった際、夜道を走って医師に往診を頼んだが、来てもらえないまま亡くなった。この体験から「どんな時でも命を助ける医師になろう」と医学部を目指した。

 大阪大医学部を卒業後、勤務医を経て1975年に徳洲会を設立。全国各地で病院や診療所、福祉施設などを展開した。徳洲会が全国で運営する病院(今年6月時点)は神奈川、大阪など76施設で、このうち出身地・鹿児島の離島には8施設。医師を志した原点を貫き、離島の医療向上に寄与した。

 一方、医療の現状への批判を繰り返し、日本医師会などとの確執を深めた。「政治的な力で病院が建てにくくなっている現状を変える」として政界にも進出。1990年の衆院選で初当選した。当時の中選挙区制のもと、1人区だった「奄美群島区」では、元法相の保岡興治氏(2019年死去)と激しい選挙戦を展開し、「保徳戦争」と呼ばれた。

 保岡氏の秘書だった金子万寿夫・元衆院議員(77)は「政局面で対立した時期もあったが、それを乗り越え、奄美は一つという思いのもと互いに活動してきた」と振り返り、「奄美群島や鹿児島県政の発展の功績も大きく、尊敬していた。逝去の知らせに触れ、残念です」と話した。

 2002年、全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病の筋萎縮(いしゅく)性側索硬化症(ALS)と診断され、05年に政界を引退。神奈川県内で療養生活を送っていた。13年には次男・毅氏(53)(14年に衆院議員を辞職)の衆院選を巡る親族の公職選挙法違反事件が発覚。次女らへの判決で、徳田氏が事件の首謀者と認定されたが、ALSで刑事責任を問うのが困難として不起訴(起訴猶予)となった。

 毅氏から訃報の連絡を受けたという、自民党の総務会長で鹿児島県連会長の森山裕衆院議員(79)は「多くの家族に見守られた最期だったと聞いた。離島の医療に特に心血を注いでいただいた。徳田さんの遺志を継ぎ、全国どこに住んでいても必要な医療を受けられる体制を守っていきたい」と述べた。